空手家・佐竹雅昭が語る「K-1」と格闘家人生 第2回(連載1:K-1の熱狂のなかにいた佐竹雅昭 空手家を志したきっかけは「光って見えた」ある一冊の本だった>>) 現在の格闘技人気につながるブームの礎を作った「K-1」。その成功は佐竹雅昭を抜…
空手家・佐竹雅昭が語る「K-1」と格闘家人生 第2回
(連載1:K-1の熱狂のなかにいた佐竹雅昭 空手家を志したきっかけは「光って見えた」ある一冊の本だった>>)
現在の格闘技人気につながるブームの礎を作った「K-1」。その成功は佐竹雅昭を抜きには語れない。1980年代後半から空手家として活躍し、さらにキックボクシングに挑戦して勝利するなど、「K-1」への道を切り開いた。
59歳となった現在も、空手家としてさまざまな指導、講演など精力的に活動にする佐竹氏。その空手家としての人生、「K-1」の熱狂を振り返る連載の第2回は、「日本一になる」と決意したきっかけと、正道会館に入門するまで。
ウィリー・ウィリアムス(左)に蹴りを放つ佐竹雅昭
photo by Kyodo News
【公園で声をかけてきた、極真空手の男】
書店で手にした大山倍達の自伝を読み、高校に進学せず「山籠もり」を決意した中学時代の佐竹少年。結局は両親、教師の猛反対にあって断念するも、高校入学後に空手道場に入門することを許可された。
空手家になるきっかけになった重大な出会いが、高校入学前にもうひとつあった。
「あれも中学3年の時でしたね。前回(連載第1回)もお話しましたが、僕は中学1年から毎日、自宅の裏にあった公園の大木を相手に突きや蹴りの練習を続けていました。そんなある日、ジャージを着た知らない男の人が歩み寄ってきたんです。そのジャージの胸には『極真會』と刺繍されていたので、『うわ、極真空手の人や!』と驚いていたら、その方がいきなり『君、そこに立って構えてみなさい』と言ってきたんですよ」
指示された通り構えた瞬間、全身に衝撃が走った。
「構えた瞬間に後ろから蹴りを入れられ、『腰が高いね』と。その時の痛さは今も忘れられません。本物の痛みを知って、『これが空手なんや! 俺が目指したものは間違いない!』と感動したんです。当時、僕は15歳。尾崎豊さんじゃないけど、僕にとっての『15の夜』というか(笑)。自由になって道が見えたような気がしました」
本物の空手家が放つ蹴りの凄まじさを味わい、空手家になる決意がさらに固まった。そして、その男性から指導を受けた。
「それまでは、大山先生の著書や雑誌などを参考に、見よう見まねで突きをやっていました。でも、その方から『突いてみな』と促されて『エイ!』と木に向かって突くと、『違う。そうじゃない』と、正しい突きを教えてくれたんです」
【「君は日本一になれるよ」】
それまで佐竹は、突きを放ったあとにすぐ拳を引いていたという。しかし極真會のジャージを着た男性は、その"引く突き"を「違う」と断じた。
「『突きは引くんじゃない。止めるんだ』と指導されました。すぐに拳を引いてしまうと、相手を倒すことはできない。イメージとしては、大木を貫くような感じですね。そのひと言のおかげで、自分でも木に当たる拳の感触がまったく違うことがわかりました。
試行錯誤で正しいやり方がわからなかったのが、たった一瞬で雲が晴れたように極意を理解できたんです。この時の体験は、今も僕の指針になっています。『物事は、それをよく知る人から学ばないといけない』。見ず知らずの男性から、身を持って教えられました」
指導を受けた後、公園のベンチで言葉を交わした。
「その男性から『君は将来、何をやりたいんだ?』と聞かれて、僕は『(大山倍達の自伝に記述があった)"牛を殺す人間"になりたいです!』と即答しました。すると、男性は苦笑いしてそれには答えず、『ほかには?』と続けたので、『日本一になります』と言いました。そうしたら、『君は日本一になれるよ』と断言してくれたんです」
初対面の佐竹少年に「日本一」の太鼓判を押した理由を、男性はこう説いたという。
「その方は近所に住んでいて、僕が公園の大木に向かって、毎日突きや蹴りの練習をやっている姿を見ていたそうなんです。それで、『なぜ日本一になれるのかというと、君は人に笑われるような馬鹿なことやっていたから。普通の人は、他人から馬鹿にされるようなことはやらない。中学生で毎日、大木を蹴り続ける人間もほかにはいないはず。でも、君は誰もやらないようなことを、ためらわずに最初にやれる男だ。だから、日本一になれるんだよ』とおっしゃったんです。
その言葉で、完全に空手家になる道が定まりました。『ヨシッ! 他人から笑われようが自信をもって、自分を信じてやってみよう』と。その日が、僕が"超人"になることを追求するスタートになった日です」
【高校生活は授業の間も稽古漬け】
その時は、男性の名前を聞くことはなかった。しかし後年、その男性からSNSを通じて「佐竹さんは、あの時に公園で出会った少年ですよね?」というメッセージが届き、やりとりをしたという。
「そんな運命の出会いと親の許しもあって、中学を卒業してすぐに極真会館に入門しようと行動を起こしました。当時、大阪の福島区に極真の本部直轄の道場ができて、すぐに見学に行ったんです。道場に入って驚きましたよ。先生はごっつい体しているし、道場生たちの肉体もすごくて"野獣"の集まりに見えたんです。
そんな猛者たちが、狭い道場に50人ぐらいいて、腕立て伏せやスクワットを延々と繰り返していた。ただ、突きや蹴りの稽古もやっていたんですけど、狭いから組手はできなくて。だから『これなら、今まで通りひとりで稽古できるな』と思って、それ以降は道場に行きませんでした」
極真会館への入門を断念し、肉体強化のために高校の近くにあったトレーニングセンターに通い始めた。
「日曜日も含めて、昼・晩の弁当を持って毎日通いました。そのセンターには空手やキックボクシングなど、いろんな格闘技をやっている人がいて。その練習を見ながら体づくりを学んでいって、ベンチプレスで140キロぐらいを上げるまでになりました」
一方で学校でも、独自の稽古をやっていたという。
「休み時間はすべて稽古にあてました。ノルマも決めて、1時間目が終わったあとの休み時間は腕立て伏せ50回。2時間目は腹筋50回。3時間目は逆立ち3分、といったように。4時間目が終わった後の昼休みは、弁当を食べた後に懸垂をして、蹴りを100本やったあとに、友だちと野球やサッカーをして遊びました。そんな変なことをやり続けるヤツはいませんから、学校中で有名になましたよ(笑)」
そんな稽古に没頭していたある日、ひとりの友達が一枚のチラシを持ってきた。
「友達が持ってきたのは、空手道場の入会募集でした。そのチラシには『DO ENJOY空手』と書いてありました。僕は『何だこれは! 空手をナメとんのか!』と呆れてチラシをあらためて見ると、『正道会館』と書いてあった。
当時は知らなくて『正道会館? どこの寸止め空手だ』と思いましたけど、チラシには『見学者にはミットをプレゼントします』という文言があったんですよ。それを見て、『ミットだけもらいに行くか?』と、友達5、6人を誘って見学に行きました」
【伝説の空手家との組手で入門を決意】
場所は、現在と同じ。大阪府大阪市北区、JR天満駅前にある正道会館本部道場だった。
「駅前の立地がいい場所で、デカデカと『正道空手』という看板を掲げていたので、『思ったよりもマトモな道場なのかな?』と。それで道場のドアを開けると、『君たち、見学かい?』とノリが軽い男性が笑顔で声をかけてきたんです」
その笑顔の男性は、正道会館を創始した石井和義館長だった。
「重苦しい極真の道場とは真逆で、その笑顔を見て『何だ、この軽い道場は!』とびっくりしましたよ(笑)。でも、石井館長から『君いいね。体大きいね』とおだてられて、気づいたら見学のはずなのに組手をやっていました。その相手が、めちゃくちゃうまかったんですよ」
その相手は中山猛夫。中山は最初、極真会館芦原道場に所属しており、空手を初めて1年も満たない1977年の極真全日本選手権で準優勝した伝説の空手家だ。1980年に芦原道場を脱会し、石井館長が正道会館を設立した時に行動を共にし、師範を務めていた。
「『この人、極真のすごい人だ!』と感動して、中山師範に教えていただけるなら入門しないと、と思ってすぐに正道会館に入門しました」
紆余曲折を経て、17歳で入門した正道会館。そこで佐竹は、いきなり衝撃を受けることになる。
(つづく)
【プロフィール】
佐竹雅昭(さたけ・まさあき)
1965年8月17日生まれ、大阪府吹田市出身。中学時代に空手家を志し、高校入学と同時に正道会館に入門。大学時代から全日本空手道選手権を通算4度制覇。ヨーロッパ全土、タイ、オーストラリア、アメリカへ武者修行し、そこで世界各国の格闘技、武術を学ぶ。1993年、格闘技イベント「K-1」の旗揚げに関わり、選手としても活躍する傍ら、映画やテレビ・ラジオのバラエティ番組などでも活動。2003年に「総合打撃道」という新武道を掲げ、京都府京都市に佐竹道場を構え総長を務める。2007年、京都の企業・会社・医院など、経営者を対象に「平成武師道」という人間活動学塾を立ち上げ、各地で講演を行なう。