1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災から間もなく30年を迎える。節目の日を前に、未曽有の自然災害を経験した各界著名人が当時を振り返る企画「あの日、あの時」。元阪神球団社長・三好一彦氏は甲子園球場のある西宮市の自宅で被災した。 …
1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災から間もなく30年を迎える。節目の日を前に、未曽有の自然災害を経験した各界著名人が当時を振り返る企画「あの日、あの時」。元阪神球団社長・三好一彦氏は甲子園球場のある西宮市の自宅で被災した。
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戦争から50年。三好一彦氏(94)は西宮で再び災禍に見舞われた。地震によって半壊状態となった自宅で、空襲を受けて灰になったかつての実家のことを思い出していた。
学徒勤労動員で旋盤工として工場へ送り込まれたのは中学生のとき。戦災の経験こそあったが、「今度は“えらいこっちゃ”ではすまへん。なんとかせないかん」という思いが強かった。なぜなら阪神電鉄本社のレジャー事業担当役員であり、球団社長という立場になっていたからだ。
真っ先に頭に浮かんだのはチーム関係者や球団職員の安否だった。連絡が取れない状況下で乏しい情報をかき集め、全員の無事を確認し終えたあと、予定どおり安芸キャンプを実施した。
だが、オープン戦が近づくと空気が一変した。近隣住民の「みんな苦しんで大変な時期なのに野球なんかしている場合か」という反発の声に、やむなく地元開催の試合を中止。使用球場を日生に変更する綱渡りの措置で急場をしのいだ。
当時、阪神電車は甲子園へ向けて梅田からの乗客を運べても、神戸方面からの動員は6月下旬の全線開通を待つしかなかった。それでもシーズンに突入した。
「生活基盤がコロっと変わってしまったからねえ。電車の車庫が壊滅したり大変でした。親会社が傷んでるのに子会社がお金を使うわけにもいかんし、投資不足が響きました。本当の暗黒時代でした」
2軍施設使えず
ただ、この極めて厳しい環境で三好氏を驚かせたことがある。それは頑強な甲子園球場の存在だ。
地震で地盤が緩み、鳴尾浜の2軍施設は液状化で使用不能。近くの阪神パークも液状化が激しく園内の小川は影も形もなくなり、ボート池は池底が割れて逆に水が空っぽ状態になっていた。
「目の前の高速道路が傾いているのに甲子園はビクともしなかった。あんな古いものが。躯体(くたい)そのものが頑丈で、ありがたかった」
それとグラウンドだ。定期的に行う土の掘り起こしなどの手入れと無関係ではなかった。
「大小の石や土、砂が何層にもなっているが、丁寧な整備をやってもらっていたおかげ。もしもグラウンドが割れていたら当分、野球はできなかったでしょうから」
結果的にこの年は最下位。三好氏の言葉どおり暗黒時代を象徴するシーズンとなった。だが、
「自宅が壊れても口に出さずに黙々と仕事をしてくれていた。みんな熱心やった。キャンプ中は休日を利用して自宅へ帰り、水くみをして戻る選手もいた。苦労してました」
30年たっても忘れることがない。“みんな”には今でも頭が下がる思いだという。
◆三好 一彦(みよし・かずひこ)1930年9月23日生まれ、94歳。兵庫県出身。灘高-神戸大では巧守の内野手として鳴らした。53年に阪神電鉄に入社。秘書部長、専務を経て91年にタイガースの球団社長に就任。98年のシーズン終了後に退任した。