引退インタビュー梅崎司(大分トリニータ)後編引退決断のきっかけは曺貴裁監督の「心に刺さる言葉」「埼玉スタジアムが揺れる感覚は、ほかには代えがたい瞬間」 大分トリニータに復帰して過ごした3年半、梅崎司はいち選手としてだけでなく、チームを牽引す…
引退インタビュー
梅崎司(大分トリニータ)後編
引退決断のきっかけは曺貴裁監督の「心に刺さる言葉」
「埼玉スタジアムが揺れる感覚は、ほかには代えがたい瞬間」
大分トリニータに復帰して過ごした3年半、梅崎司はいち選手としてだけでなく、チームを牽引するリーダーであろうとした。
その背景には、2018年に浦和レッズから移籍した湘南ベルマーレでの出会いと日々があった。当時・曺貴裁(チョウ・キジェ/京都サンガF.C.監督)監督から求められた役割に取り組み、また選手としての輝きを取り戻した経験は大きな財産になっている。
そして指導者として、次のステージに進む彼の今後にも生きていく。自分と向き合い続けてきたプロサッカー選手としての20年を振り返りつつ、抱く未来に目を向けてもらった。
※ ※ ※ ※ ※
梅崎司の笑顔でセカンドキャリアの道を進む
photo by Sano Miki
── 大分トリニータで過ごした3年半では、物事を考える単位が「個から組織」に変わったとのことですが、そのきっかけは2018年に移籍した湘南ベルマーレにあったのでしょうか?
「そう考えられるようになったのは、湘南で曺貴裁さんに出会えたことが大きかったです。だからこそ、自分は変わることができました。
10年間を過ごした浦和レッズでは、主力ではありつつも、スタメンとして絶対的な存在ではなく、自分のなかにもそこに対する劣等感がずっとありました。チームも、リーグ優勝に手が届きそうなところにいるのに、毎回、届かなかった。
それに対して、自分なりに思うことはあったのに、その劣等感からチームに対して発言することができなかった。そんな自分が嫌だったし、ものすごく後悔していたんです。
そうしたタイミングで湘南からオファーをもらい、当時監督だった曺さんからはリーダーになることを求められました。自分自身でも殻を破らなければいけないと決意したことで、変われたところ、得られたことがたくさんあったなと」
【俺が知っている本来の梅崎司ではない】
── 選手を引退したあとのキャリアについて、「監督を目指す」と話してくれましたが、何度も名前が挙がっている曺監督の影響は大きいのでしょうか?
「大きいですね。湘南に移籍する時の交渉の席で、曺さんにすべてを言い当てられた時から。浦和でACL(AFCチャンピオンズリーグ)に優勝するなど、大きな喜びを得る一方で、曺さんからは『俺が知っている本来の梅崎司ではない』と指摘されたんです。
『自分が思うお前は、人に合わせるプレーばかりを選択するのではなく、自分のよさを活かそうとギラギラしている選手だ』と。さらに『チームの中心で戦い、周りを感化させるプレーヤーだと思っている』とも言われました。
自分自身も浦和で過ごした10年間、ずっと葛藤していたことを言い当てられたので驚きました。また、曺さんは『俺ならお前をもう一度、輝かせられる』とも言ってくれて。ただし、『その道は決して簡単ではない』ともつけ加えられて。
その言葉を聞いて、選手として燃えないわけはないじゃないですか。その時、もう一度、自分自身に挑戦しようと思ったんです」
── 実際、曺監督のもとで輝かせてもらった感覚は?
「めちゃめちゃあります。曺さんのもとで忘れかけていたプレーをたくさん思い出しました。自己分析としては、ドリブルで仕掛けることを得意としている評価でしたが、『こういうパスも出せるよな』『ここまで見えているだろう』と、ドリブルだけでなく、パスについても求められました。
実際、浦和ではパスの能力に秀でた(柏木)陽介がいたので、自分はそこで勝負することを遠慮していたところもあったんです。でも、際どいパスを狙うことで、昔を思い出すところもたくさんあって」
── プロとして生き残っていくために、そぎ落としたプレーを呼び覚ますような?
「そうです。自分にもこんなプレーができたんだ、といった不思議な感覚でした。トライしていくとどんどんアイデアも出てくるし、引き出しも増えていった。加えてリーダーとしての自分にも向き合うようになり、本当に気づきの多い時間を過ごしました」
【あのタイトルは、僕なしでは獲れなかった】
── 湘南時代のことで思い出すのは、チーム全体を見つつも、選手としてギラギラしている印象でした。
「曺さんからも『オールドルーキー』と呼ばれていたことを思い出します(笑)。当時は練習量も多く、浦和時代の倍近くトレーニングしているのではないかと思う時期もありました。でも、身体が鍛え直され、どこか復活していく感覚があったんですよね」
── その結果、曺監督とともに2018年のYBCルヴァンカップで優勝できたことは大きかったのでは?
「チームを変えられたと思うことができました。あのタイトルは、僕なしでは獲れなかったと胸を張って言えます。それくらい自信を持っています。一方でチームメイトにも助けられたので、それもチームを変えられたことの効果だったと思っています。
柏レイソルとの準決勝・第2戦はPK戦までもつれているのですが、そこで僕はPKを外してしまったんです。その結果、ここで終わりだとあきらめかけていたのですが、チームメイト、ファン・サポーターはあきらめず、助けてもらって決勝に進むことができた。だから僕は、優勝以上に準決勝の記憶が強く残っています」
── 指導者に転身する次のキャリアについても聞かせてください。今後は決まっているのでしょうか?
「曺さんが率いる京都でコーチを務めさせてもらいます」
── 監督と選手という関係から、監督とコーチという関係に代わって、曺監督の哲学を学べるわけですね。
「以前から、『いつかは曺監督のもとで指導者として学びたい』という話をしていたのですが、選手を引退することを決めたタイミングで、『曺さんのもとで学びたいので、可能性がある時には声をかけてほしい』と伝えさせてもらっていました。
その後、曺さんがクラブに話をしてくれて、京都から話をいただきました。以前から曺さんは、若い世代の監督が出てこなければ日本サッカー界の未来は明るくならないと言っていました。その一歩を早く踏み出すようにも言われていたんです。
選手ではなくコーチという立場なので、今までのように学ぶだけではなく、助けにならなければならないので、コーチとして曺さんをサポートし、チームの力になれるように努力していきたいと思っています」
【すべてが財産になっているのは間違いない】
── プロサッカー選手として過ごした20年間で多くの監督に出会ってきました。その経験も活かせるのではないでしょうか?
「プロ2年目に出会った(ペリクレス・)シャムスカ監督は、選手自身に長所に目を向けさせ、自信を持ってプレーするマインドにしてくれる指導者でした。選手を引退する時にも、感謝を伝える機会を設けてもらったのですが、その時にも指導者としての心構えや、彼自身が大切にしていたことなど、アドバイスをもらいました。
浦和で多くの時間を過ごしたミシャさん(ミハイロ・ペトロヴィッチ監督)は、それまで自分が持っていなかったサッカー観を与えてくれ、サッカーへの幅を広げてもらいました。間違いなくその後のサッカー選手人生に活きましたし、ふたりを筆頭に出会ってきたすべての指導者の方たちの教えは、今後に活かせる金言ばかりだったと思っています」
── 自身の経験も活かせるのではないでしょうか。若いころには海外移籍も経験、また何度もケガを乗り越えた経験もあります。チームでは、優勝はもちろん、優勝争いや残留争いも経験しています。
「すべてが財産になっているのは間違いありません。いろいろな状況、いろいろな立ち位置を経験しているので、その時、その時で伝えられること、見えることもあると思っています」
── 最後に、プロサッカー選手として駆け抜けた20年間はどんな日々でしたか?
「自分と向き合い続けた20年間だったように思います。僕、『内省』という言葉が好きなのですが、よく自分のことは自分が一番わかっていると言いますけど、僕は違うと思っていて。意外に自分の本心やなりたい自分には、自分でフィルターをかけてしまっていたり、周りに流されてしまうこともあると思っています。
それはレベルが高くなればなるほど、合わせる作業も増え、その傾向は強くなっていく。だからこそ、自分はどうなりたいのか。そこに向き合い続けてきた20年間でした。その思いや願い、夢について大きなところを見ていた時もあれば、それが小さくなっていった時もありました。
でも、その時の自分にできる範囲で、もがき続けてきました。その考えや意識は確実にピッチでのプレーに反映されていましたし、プレーヤーとして成長すると同時に、人としても成長できた時間だったと思っています」
<了>
【profile】
梅崎司(うめさき・つかさ)
1987年2月23日生まれ、長崎県諫早市出身。2005年に大分トリニータU-18からトップチームへ昇格し、翌年にはレギュラーに定着。同年8月には日本代表デビューを果たす。2007年1月にフランス・グルノーブルに期限付き移籍でプレーしたのち、同年12月に浦和レッズに移籍。2018年から湘南ベルマーレ、2021年から大分トリニータで活躍し、2024年11月に現役引退を発表した。ポジション=MF。身長169cm、体重66kg。