引退インタビュー梅崎司(大分トリニータ)中編引退決断のきっかけは曺貴裁監督の「心に刺さる言葉」 梅崎司がプロサッカー選手として駆け抜けた20年のうち、半分にあたる10年間、在籍したのが浦和レッズだった。戦いの場の中心だった埼玉スタジアムで聞…

引退インタビュー
梅崎司(大分トリニータ)中編

引退決断のきっかけは曺貴裁監督の「心に刺さる言葉」

 梅崎司がプロサッカー選手として駆け抜けた20年のうち、半分にあたる10年間、在籍したのが浦和レッズだった。戦いの場の中心だった埼玉スタジアムで聞いた声援は、彼をどのように突き動かしてきたのか。

 若くして海外移籍を経験し、夢破れたなかで移籍した浦和レッズで抱いた当時の野心。ケガを繰り返しもがき続けた日々と、アジアを制覇した時の思い。

 サッカー選手としてだけでなく、ひとりの人間として成長していった過程を思い起こしてもらった。

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梅崎司が浦和レッズでの10年間を語る

 photo by Sano Miki

── 選手生活20年のうち、半分に当たる10年間を過ごした浦和レッズでの日々についても聞かせてください。大分トリニータから浦和レッズに移籍したのが2008年。2006年にJ1リーグで初優勝し、2007年にAFCチャンピオンズリーグ(ACL)でもタイトルを獲ったチームに飛び込みました。

「2007年にフランスのグルノーブルに移籍して、そこで思うようにプレーできず、打ち砕かれましたけど、それでも当時は年齢的に若く、野心にあふれていました。

 もう一度、ヨーロッパに挑戦したいという思いも抱いていたので、浦和レッズでスタメンを勝ち取れば、自然とその道が見えてくると思って、移籍したことを覚えています」

── 当時のメンバーを見ると、高原直泰さん、鈴木啓太さん、阿部勇樹さん、田中マルクス闘莉王さん、坪井慶介さんと、主力を務めていた選手は、日本代表クラスばかりでした。

「そのメンツに怖じけづく瞬間もありましたけど、僕のサッカー人生はその繰り返しだったんですよね。僕自身の性格は、小心者だし、心配性だし、ビビりだし(笑)。

 大分のユースに加入した時も、ユースからトップチームに昇格した時も、そこから年齢を重ねても、自分よりも力のある選手や、どこか雰囲気のある選手に対しては、怖じ気づいてしまう自分がいました」

【豪華なメンツにビビりながらも...】

── それは意外です。

「引退するにあたって、サッカー選手としての自分を振り返った時、そんなに器用な選手ではなかったな、と。ただ、それでも自分の武器を見つけて、そこを磨きまくって何とか生き残り、そして未来を切り拓いてきたように思います。

 だから、浦和レッズ時代もそうした環境で、自分にできることを広げるよりも、自分の長所を突き詰められたことが大きかったように思います。そこには若いころに出会った指導者の影響もありました」

── それは、どなたですか?

「(ペリクレス・)シャムスカ監督です。おそらく大分でシャムスカ監督に出会わなければ、プロ2年目に大きく飛躍することもなかったと思っています。

 彼と出会えたこと自体が人生の転機になりましたし、同時に長所に目を向けるきっかけになりました。浦和レッズに移籍した時も、豪華なメンツにビビりながらも自分の長所で勝負してやると思えたのは、そうした原点があったからだと思っています。

 当時は闘莉王さんをはじめ、周りからたくさん指摘されましたからね(笑)。でも、そこに負けていたら何も残せないし、前にも進めない。毎回、いい精神状態ばかりではなく、時には悩んだり、迷ったりすることもありましたけど、試行錯誤しながらも前進し続けられたのは、シャムスカ監督と出会って教わったマインドによるものだと思います」

── 浦和のファン・サポーターから支持されていたのは、もがきながらも前に進もうとする、戦おうとする姿勢にあったように思います。

「本当に応援し続けてくれた浦和のファン・サポーターには感謝しています。ありがたいですよね。僕自身は決してスーパーな選手ではなかったし、コンスタントに活躍できたわけでもない。たくさんケガもしたし、その影響からいい時と悪い時の波も激しかった。それでも振り返った時、本気で応援してもらっていたなって」

【浦和サポーターに認められた瞬間】

── プレーに人間性が表れていたから、見る人を引きつけていたのではないでしょうか?

「これはサッカー選手としての自分の財産だと思っているのですが、大分も、浦和も、湘南も、出会ったファン・サポーターの人たちが本気で自分を応援してくれていたことでした。

 僕のプレーに対して僕以上に喜んでくれるし、僕以上に悲しんでくれる。ケガをした時には、僕以上に落ち込んでくれていた。時には、僕に自分の人生を乗せてくれているような感覚があって、引退を決意した時、そのおかげで自分自身を誇ることができました。

 この20年間、いいことばかりではなく、苦しいこと、つらいことのほうが多かったですけど、それでも真摯に取り組んできて、全力で挑んで、全力で走って、全力で戦い抜いたなっていう自分の足跡がはっきりと見えました。うん。自分はこの生き方ができてよかったなって」

── 浦和のサポーターは選手を厳しい目で見ることで知られていますが、梅崎選手にも認められた瞬間はあったのでしょうか?

「ありました。今でもはっきりと覚えています。アウェーでのジュビロ磐田戦(J1第5節/2008年4月2日)でした。

 第4節まで途中出場だったのですが、第5節で初めて先発する試合前に自分のチャントを歌ってくれて......。認めてもらえているとは思っていなかっただけに、その信頼に応えるためにも、絶対に勝利しよう、自分を見せようと思ったことを昨日のことのように覚えています」

── 10年間を過ごした浦和での日々で思い出すことはありますか?

「たくさんありますけど、2017年にACL(AFCチャンピオンズリーグ)で優勝したことは思い出します。そう簡単に見ることのできない景色でしたから。アル・ヒラル(サウジアラビア)とのアウェーで戦った決勝も異様でしたからね」

── その雰囲気に怖じ気づくことはなかったのでしょうか?

「いや、やっぱりビビりましたよ(笑)。でも、第2戦をホームで戦える強みもありましたし、その強みがプラスに働いたと思っています」

【梅崎から渡邊凌磨へ引き継がれたチャント】

── 第2戦は試合終了間際に交代出場して、優勝をピッチの上で迎えました。

「ACLの決勝だけは、埼玉スタジアムもいつもと雰囲気や緊張感が違いますからね。浦和にとって10年ぶりのアジア制覇で、一番ほしかったタイトル。試合前の雰囲気も含めて、その瞬間、瞬間を味わえたことは、財産になっています」

── その10年を振り返って、駆け巡る思いとは?

「自分自身が大きな野心を持って浦和に行き、ファン・サポーターから認められた瞬間も含め、何度も大きなケガを繰り返して、心が折れそうになった記憶もよみがえります。そのたびに応援し続けてくれたファン・サポーターがいて、支えてくれたクラブスタッフがいたおかげで、復活できたり、成長できたりしました。

 時には、自分の野心や取り柄が薄れていた時期もありましたけど、あそこでもがき続け、生き残ろうとしたから、今の自分はいると思っています。

 あの埼玉スタジアムで、自分が試合を決めると思ってプレーした時に、ゴールを決めて、スタジアムが揺れる感覚は、ほかには代えがたいエモーショナルな瞬間でした。自分が好きなその瞬間をエネルギーにして、僕はサッカーをしているんだなと思っていました」

── 浦和では、梅崎選手のチャントが渡邊凌磨選手に引き継がれているそうですね。

「たまたま、浦和駒場スタジアムに試合を見に行った時に、そのチャントがお披露目になったんですよ。その幸運にも縁を感じました。

 彼自身は、ものすごく力のある選手なので、僕のチャントが引き継がれているのは申し訳ないというか、僕のチャントでいいのかと、おこがましい気持ちですけど。

 彼自身は埼玉県の出身で、幼いころから浦和レッズが好きだったことも聞きました。いろいろな思いを背負って、浦和レッズに来てプレーしている。そうした熱い思いも含め、さらに輝いてほしいなと思っています」

(つづく)

「シャムスカ、ミシャ...指導者の方たちの教えは金言ばかり」

【profile】
梅崎司(うめさき・つかさ)
1987年2月23日生まれ、長崎県諫早市出身。2005年に大分トリニータU-18からトップチームへ昇格し、翌年にはレギュラーに定着。同年8月には日本代表デビューを果たす。2007年1月にフランス・グルノーブルに期限付き移籍でプレーしたのち、同年12月に浦和レッズに移籍。2018年から湘南ベルマーレ、2021年から大分トリニータで活躍し、2024年11月に現役引退を発表した。ポジション=MF。身長169cm、体重66kg。