1月9日、Jリーグで一時代を築いたストライカー、豊田陽平(39歳、ツエーゲン金沢)が現役引退を発表した。2004年、星稜高校から名古屋グランパスに入団以来、21年間のプロサッカー選手生活の幕を閉じることになった。 J1では98得点を記録し…

 1月9日、Jリーグで一時代を築いたストライカー、豊田陽平(39歳、ツエーゲン金沢)が現役引退を発表した。2004年、星稜高校から名古屋グランパスに入団以来、21年間のプロサッカー選手生活の幕を閉じることになった。

 J1では98得点を記録し、カップ戦を含めると120得点近い。J2でも64得点し、2011年にはサガン鳥栖で得点王に輝いている。これがJ1昇格にも結びつき、2012年にはJ1ベストイレブンも受賞、日本代表入りにもつながった。クロスに対しては絶対的な強さを見せ、"ゴールによって人生を記してきた"と言えるだろう。

「FWはやっぱりゴール。自分に厳しくやっていかないといけない。自分の人生は自分で切り開くものだから」

 豊田はそう語っていたが、ストライカー人生にピリオドを打つ日が来たのだ。

 昨年11月、シーズン終了直前、豊田は揺れる思いを口にしていた。

「年を取って、失っているものがあるのは感じます。けど、できることも増えているんですよ。ケガから復帰したのはあるんですけど、今までにない充実感で、サッカーが楽しい! まだまだFWとして若い選手に伝えられることもあるって思っています。でも同時に、自分は十分にやってきたし、いつやめてもいいかな、とも思っていますね」

 現役続行か引退か。その時点で、彼の気持ちは半々だった。その後、古巣である鳥栖から来た「強化部のオファー」は落ち着きどころだったのだろう。

「大義があるし、期待値も大きい」

 豊田はそう言って、愛する鳥栖をJ1に戻すミッションを選んでいる。



現役引退を発表した豊田陽平。2010年から21年までサガン鳥栖でプレーしたphoto by Mutsu Kawamori/AFLO

 昨シーズン終盤、豊田は身悶えしていたという。愛する鳥栖が残留争いで四苦八苦する状況だったが、何もすることができない。「鳥栖の選手として、どう振る舞うべきか」。そこを叱咤するだけで何かが変わるのではと、駆けつけたい衝動を覚えたほどだったという。豊田と鳥栖は、ほとんど等号で結ばれる。彼のゴールでJ1にけん引し、優勝争いもさせた。

 ただ、本人に自負はあっても、おごりはない。

【常に語っていた「鳥栖の強さ」】

<鳥栖で結果を残すことで自分は成長し、自分が成長することによって、鳥栖はさらに強くなる>

 豊田にはその感謝があり、「鳥栖でなかったら、今の自分はない」という律義さが動力になっていたのである。

 彼にとって、鳥栖というクラブでプレーしたことが運命的だった。当時、ユン・ジョンファン監督が率いていたのもあったが、際だった「結束」のなかでプレーすることで、血沸き肉躍ったという。自分が誰かのために、誰かが自分のために、という共闘精神のなかで無敵になれた。

「鳥栖の強さは試合最後の10~15分に出ると思うんです」

 豊田は常々、そう語っていた。

「最後のところで、ぐんと走りに伸びが出てくるというか。それは特別なトレーニングというよりも、ふだんの練習の厳しさにあると思います。日頃からのひたむきさ、あきらめない、という部分は僕らの原点。毎日の練習から真剣に挑むという振る舞いは、このチームに所属した以上、決して忘れてはいけないことです。それは鳥栖の伝統だと思うし、僕らは若い選手へと継承していかないといけません」

 一方、豊田は単純な根性論や懐古主義には迎合しない。

 たとえば、「朝日山」の話になった時だ。「朝日山」は市内にある小高い山だが、"地獄のトレーニング"を意味し、290段もの階段を駆け上がった後、なだらかな坂での下り、上り、下りを繰り返す。それは鳥栖の伝統だが......。

「個人的に思うのは、周りが"朝日山をやらないと勝てない"みたいになるのはどうかと思います。それぞれ監督のやり方もあると思うし、"やれば勝てるおまじない"ではない」

 豊田はそう信条を語っていた。論理的なアプローチがあったからこそ、ゴールを積み重ねることができたのだ。

 彼は、いつだって自分の姿勢や行動を顧みて決断をしてきた。ストライカーの本能だけには頼らなかった。思考する。それが豊田というストライカーだったし、ゴールを、勝利を逆算し、ピッチの上ではヒールにもなることができた。その苛烈さが本能的にも見えたのだった。

 2011年、筆者が連載ノンフィクション記事で、初めて彼にインタビューしたとき(『フットボール・ラブ』『グロリアス・デイズ』/集英社)、豊田は葛藤を漏らしていたことがある。

「昔のプレー動画を見ていると、自分はとげとげしさがあったし、人を近づけない感じがありました。何をするのでも自信がみなぎって、全部のパスをゴールの枠に飛ばせる気がして。それが尖っている自分に恥ずかしさを覚えて、チームのなかに収まろうって思ったんです。でも、それで迷いが出て......ゴール前で仕事をするには、やっぱり強引さをなくしちゃいけないんですよね」

 豊田は、2008年北京五輪で日本の大会唯一のゴールを決めたが、多くの五輪代表選手が日本代表入りする一方、J2でのプレーを余儀なくされていた。そのなかで、悔しさを噛み締めながらも、とことん、自分なりの答えを探しているようだった。その結果、鳥栖で英雄になったし、日本代表でもアルベルト・ザッケローニ、ハビエル・アギーレ、ヴァイッド・ハリルホジッチという3人の代表監督に招集されているのだ。

 かつて豊田が鳥栖をJ1に昇格させたことで、鳥栖はJ1で戦い続けることができた。引退すると同時に、クラブはJ2へ降格することになった。その鳥栖に戻って再び汗をかく......それも彼の運命なのかもしれない。