鍵谷陽平インタビュー 全6回(6回目)インタビュー#5>>急遽、鎌ヶ谷に呼び出され巨人へのトレード宣告 2019年のシーズン途中、日本ハムから巨人へトレード移籍した鍵谷陽平氏。はたして、巨人ではどのような日々を過ごしたのだろうか。また、セ・…
鍵谷陽平インタビュー 全6回(6回目)
インタビュー#5>>急遽、鎌ヶ谷に呼び出され巨人へのトレード宣告
2019年のシーズン途中、日本ハムから巨人へトレード移籍した鍵谷陽平氏。はたして、巨人ではどのような日々を過ごしたのだろうか。また、セ・パの野球の違い、栗山英樹監督と原辰徳監督のふたりの名将についても語ってもらった。
2019年シーズン途中に巨人に移籍した鍵谷陽平氏
photo by Ichikawa Mitsuharu(Hikaru Studio)
【可能性を広げてくれた小林誠司】
── 令和初のトレードで日本ハムから巨人に移籍。背番号32で、巨人1年目は27試合に投げています。
鍵谷 ジャイアンツに移籍した時、チームはほぼ独走状態だったんです。コーチの元木(大介)さんに「いい時に来たじゃん。優勝するよ、今年」と言われたのを覚えています。そういう雰囲気で入れたというのはよかったです。余裕を持ってシーズンを戦っていたので、僕自身もチャンスをもらえました。
── 中央大の先輩である澤村(拓一)さんの存在も大きかったですか。
鍵谷 大きかったですね。(坂本)勇人さんや菅野(智之)さんといった僕よりも1、2歳上の年代とつないでくれて、食事に行ったりしてしゃべれる環境をつくってくれたので、ものすごくやりやすかったです。
── 以前、ジャイアンツに入ってから「今までの鍵谷はこういうピッチャー」という固定概念を取り払って、「こういうボールをもっと生かしていこう」と言われたことで、新しい可能性、引き出しを増やしてくれたというようなことをおっしゃっていました。
鍵谷 ファイターズでやっている時は、球場も広いし、インコースに危険なボールを投げてホームランを打たれるより、得意の真っすぐをアウトコースに突いていこうというスタイルでした。そのスタイルで6年半ほど投げさせてもらって、ジャイアンツに来たら「ファイターズでけっこう投げていた鍵谷くんだよね」くらいしかみんな知らないんですよ。
なので「経験あるんだから、こういう球も投げられるよね」と要求されました。「できません」とは言えないじゃないですか。だから「できます」と言って、とにかく練習して、試合で投げて......そしたら不思議なもので、ちょっとずつ投げられるようになっていきました。
── 要求してきたのは、おもに小林(誠司)捕手ですか?
鍵谷 ですね。誠司さんは投げ終わったあとのコミュニケーションはもちろんですが、ベンチから試合を見てる時でも「もっとこういうのいけるっしょ」と。最初にそれを言われて、徐々にピッチングの幅が広がると、今度は「じゃあもっと肉づけしていこう」と、その時のコーチだった村田(善則)さんや三澤(興一)さんとチャートを見ながら、「スライダーの数値がいいから、もっと生かそうよ」といった具合にアドバイスいただき、配球を組み立てていました。僕もそれに応えようといろいろチャレンジしていったら、「もっとできるでしょ。これもやろう」と。ファイターズはいいところを伸ばしてくれて、ジャイアンツは新たな可能性を見つけてくれた。ちょっとした工夫ができるようになったのは、ジャイアンツに来てからですね。
【セ・パの野球の違い】
── セ・パの打者の違いというのは感じましたか。
鍵谷 パ・リーグは今もそうかもしれないですけど、力対力という感じですね。真っすぐとわかっていてもその球で勝負するし、わかりやすかったです。打たれる時はバーンと打たれるし、抑える時は気持ちよく三振が取れる。全体的に球場が広かったのでそういう勝負ができたんですけど、セ・リーグはちょっと狭いので、インコースもかなり使うし、変化球も多い。
セ・リーグでは、真っすぐを2球続けて投げるという配球はなかった気がします。同じコースにストレートを続けるというのは、よほどのピッチャーや、とにかく真っすぐがすごいというピッチャーしかいなかったと思います。フォークの連投はありましたけど。バッターも「変化球投げてくるんでしょ」という意識で打席に立っているので、セ・リーグの打者のほうが打つのはうまかった印象ですね。
── 最初は不安だったジャイアンツの伝統や威厳というのは、実際に入ってみてどうでしたか。
鍵谷 もちろん伝統はすごく感じました。なにより、注目度が全然違います。全国どこに行ってもジャイアンツファンがいるので、僕のことも多くの人に知っていただきました。
── そんなジャイアンツでの鍵谷さんのベストゲームは?
鍵谷 正確な日時は忘れてしまったんですけど、カープ戦でピンチの場面で登板して、鈴木誠也選手(現・カブス)をスライダー3球で三振に打ち取った試合です。ちょうど腕を少し下げてスライダーを投げ始めた頃で、すごく印象に残っています。鈴木選手がメジャーに行く前だったと思います。
あと、ベストピッチではないですけど、甲子園のタイガース戦で高梨(雄平)がツーストライクを取ってから、僕がマウンドに上がって、スライダー1球で三振に仕留めてチェンジという試合も記憶に残っています。
【キャンプで牛一頭の差し入れ】
── ファイターズ時代は栗山英樹監督(最後の1年は新庄剛志監督)、ジャイアンツ時代は原辰徳監督が指揮官でした。ともにWBCでも世界一になった監督ですけど、タイプ的にはどうでしたか?
鍵谷 全然違いますね。栗山さんは、選手に直接発破をかけることはほとんどありません。もしかしたら野手には言っていたのかもしれないですけど、ピッチャーにはなかったと記憶しています。もちろんコミュニケーションは取るんですけど、試合のことについては深く話さない。温かく見守って、「責任はオレが取るから好きにやって」というイメージです。
── 原監督はどうですか。
鍵谷 原監督は「勝つことが最高の喜びでしょ」という感じで、ドンと座って勝負するタイプです。原さんはお風呂場や食事会場でよく顔を合わせました。原監督とは一緒にサウナに入ったりして、その時に勉強になる話をしていただきました。「あの時はこうだったな」「もっとこうしたらよかったんじゃないか」というように、監督目線でアドバイスをいただきました。栗山さんはグラウンドでしか絶対に会わなかったですから。
── あと、「これが巨人か?」みたいものってありましたか。
鍵谷 キャンプでの差し入れがすごい! 牛一頭とか(笑)。毎日、豪華な鉄板焼きのステーキが出ていました。ほかにも「今日は原監督です」「今日はオーナーからです」といったように、差し入れがすごかったですね。
チームメイトから胴上げされる鍵谷陽平氏
photo by Hosono Shinji
── 鍵谷さんは引退セレモニーのスピーチで、苦しいことのほうが多かったと言っていました。一番苦しかったことは何ですか?
鍵谷 やっぱりケガをして投げられなかったことですね。ヒジを肉離れして、そこから感覚が戻るのに時間がかかって......。なかなか結果も出ないし、自暴自棄というか、ケガしちゃうと苦しい期間が長くなってしまう。怖さというのも年々刻まれますし、ケガしたら終わってしまうという恐怖も出てきますから。
── そう言えば、引退が決まってすごく充実したというか、やり切ったと言っていたじゃないですか。今でもその気持ちは変わらないですか? もうちょっとできたな、みたいなことは?
鍵谷 もう一度もがくよりも、スパッと次に進めてよかったです。1年でも長く選手をやれるに越したことはないでしょうけど、必ず終わりは来ますし、次の人生のほうが間違いなく長いですからね。終わってからでも何不自由なく暮らせるくらい稼いでいたら話はまた別なのかもしれないですけど(笑)。なので、ここから新しい人生に挑戦しようと考えました。12年間プロ野球選手としてやれて、優勝も3回させてもらって、日本一も経験できた。すごく濃い時間を過ごせたと自負しています。それこそファイターズ、ジャイアンツという正反対のチームだけど、どっちも強い時期、苦しい時期を経験できたこともよかった。そういった経験があったから、後悔なくやり切ったと思えたのかもしれないですね。
── これからの人生のほうが長いですからね。
鍵谷 そうなんです。まだ子どもも小さいですし、頑張らないと。僕が純粋にやりたいのは、才能ある若い子が鎌ヶ谷にたくさんいるので、彼らがどうなっていくのか見届けたいし、そのサポートをしたいなと思っています。
鍵谷陽平(かぎや・ようへい)/1990年9月23日、北海道亀田郡七飯町出身。北海高から中央大に進み、2012年ドラフト3位で日本ハムに入団。1年目から38試合に登板するなど、おもにリリーフとして活躍。17年にはシーズン60試合に登板した。19年シーズン途中から巨人に移籍。23年オフに戦力外通告を受けるも、古巣である日本ハムと育成契約を交わす。24年7月に支配下になるも一軍登板の機会がなく、9月に現役引退を発表。25年から日本ハムのチームスタッフとして活動する。妻は女優の青谷優衣