1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災から間もなく30年を迎える。節目の日を前に、未曽有の自然災害を経験した各界著名人が当時を振り返る企画「あの日、あの時」がスタート。第2回は北京五輪陸上男子400メートルリレー銀メダリストの朝原…

 1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災から間もなく30年を迎える。節目の日を前に、未曽有の自然災害を経験した各界著名人が当時を振り返る企画「あの日、あの時」がスタート。第2回は北京五輪陸上男子400メートルリレー銀メダリストの朝原宣治さん(52)。当時は大阪ガス入社という人生の節目、海外留学が決まっていたが、ガス事業を担う会社に身を置くにあたって心は揺れた。劇的な1年を振り返りながら、震災に対する思いを明かした。

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 朝原さんにとって1995年は人生の節目、大阪ガスへ入社した年だった。同大在学中だった1月17日の朝は、京都の下宿先にいた。卒業前のテストを控え、深夜までの勉強を終えて眠りについていた。震災発生時、付近は震度5。部屋に置いていたCDラックなどが倒れた中、飛び起きてテレビをつけた。

 「阪神高速が倒れていたりして、大変なことが起きたと。実家への電話はつながる時間で、安否確認はできました」。神戸市北区の実家へ連絡がつき、冷静だった両親の声を聞いて落ち着きを取り戻した。当時、神戸市東灘区の御影に住んでいた姉の無事も確認できた。一軒家に住んでおり、1階が崩れ落ちたため、夫婦と子供は寝ていた2階から脱出したという。

 朝原さんは入社後の海外留学が決まっていた。もっとも、ガス事業を担う会社に身を置くにあたって、心が揺れていた。「こんなに大変な時期の留学を会社が許すのか、ということと、僕自身としても留学していいのか、という気持ちがありました」。会社からは『今、自分ができることを一生懸命やりなさい』と背中を押され、ドイツへ3年間留学した。

 「大阪ガスにとっても、五輪を狙うような選手を採るのは初めての事例でした。送り出してもらったからにはきっちりやらないといけないということで、他のことを考えている余裕もなかったです」。

 練習場だった西宮市今津のグラウンドは液状化。地震対応の基地になった。朝原さんは現在、同じ場所で老若男女を対象にした陸上教室を主宰している。そして、ガス事業に携わる1人として、社会貢献活動の一環で、防災をテーマにしたイベントや子どもたちへの授業も行っている。

 「普段から友だちとコミュニケーションを取っておく、そして体を動かすことを覚えていたら避難所でも役に立ちます。日頃から気をつけていないと、いざとなったら本当に何もできません。備えや行動、想定はすごく重要だし、そういうことを伝えていきたい」

 あれから30年。「もう30年になるのかという思い。私にとって1995年は、節目として社会人になったことと震災があります」。初心に返り、あらためて入社したときの気持ちも実感するという1月17日。何年たってもあの日を忘れることはない

 ◆朝原宣治(あさはら・のぶはる)1972年6月21日、神戸市北区出身。夢野台高から同大に進み、1995年に大阪ガスに入社した。100メートルの元日本記録保持者で自己ベストは10秒02。五輪は96年アトランタから4大会連続で出場し、アンカーを務めた08年北京大会の400メートルリレーで銀メダルを獲得した。同年9月に現役を引退。スポーツクラブ『NOBY T&F CLUB」主宰。