花の2区で日本人歴代最高記録をたたき出した吉田響 photo by Kishimoto Tsutomu【11月の全日本後に監督と話し合った】「往路優勝、総合優勝を目指していたので、往路5位、総合7位はまったく満足できる結果ではありません」 …
花の2区で日本人歴代最高記録をたたき出した吉田響
photo by Kishimoto Tsutomu
【11月の全日本後に監督と話し合った】
「往路優勝、総合優勝を目指していたので、往路5位、総合7位はまったく満足できる結果ではありません」
1月3日の箱根駅伝復路終了後、そう語る創価大の榎木和貴監督の表情からは悔しさが伝わってくる。だが、前日の往路では「創価、強し」を印象づけるレースを見せた。
「うちは出し惜しみすることなく、とにかく最初からいい選手をつぎ込んで勝負していくしかない」
戦前、榎木監督がそう語っていたとおり、往路は"創価大最強"とも言える布陣。1区の齊藤大空(2年)は17位と出遅れたが、その借金をチャラにしたのが2区に置かれた吉田響(4年)だった。13人抜きで4位に上がり、さらに3区のスティーブン・ムチーニ(2年)が快走し、逃げる中央大を追いかけた。4区の野沢悠真(3年)は区間6位で3位、山で勝負をかけたが、山口翔輝(1年)が区間10位と伸び悩み、往路は5位に終わった。
復路は9区まで5位以内をキープしたが、10区で中央大と城西大に抜かれ、7位に沈んだ。97回大会で2位になった時のようなレースの再現を目指したが、果たせなかった。
レース後、読売新聞本社の選手待機場所は各大学の選手と報道陣でごった返していた。そんななか、榎木監督が吉田響と言葉を交わしていた。
「響が来てくれてチームが変わったと思う。響の走りを見たら、みんな絶対にもっとやらないといけないと思うようになるからね」
「先輩方がいろいろ示してくださり、大好きなこのチームに自分も携われたことがうれしかったですし、たった2年ですけど、本当に感謝の気持ちしかないです」
「2年か......なんか4年ぐらいいる感じで、本当に濃い2年間だったね」
榎木監督が笑うと、吉田響も笑みを見せた。往路で創価大の存在感を示すレースが出来たのは、彼の快走があったからだ。
吉田は以前から「山の神になりたい」と公言している。だが、3年時は5区を走ったものの区間9位に終わり、レース後、不甲斐なさと悔しさから号泣。今年こそはという強い決意で走力を高め、出雲駅伝では2区区間賞、全日本大学駅伝は2区2位ながら青学大のエース鶴川正也(4年)と記憶に残るデットヒートを繰り広げ、強さを見せつけた。今回の箱根では、満を持して再び5区を走るものだと勝手に想像していたが、蓋を開けてみると2区だった。
その2区では例年以上にハイレベルな争いが繰り広げられ、レースの流れを大きく左右するターニングポイントになったが、吉田の2区起用は、どのような経緯で決まったのだろうか。榎木監督が吉田と箱根についての話し合いをしたのは11月だった。
「ちょうど全日本が終わった週に響と話をしました。97回大会の往路優勝、準優勝(総合2位)のような流れをいかに作るのか、かつチームの目標である往路優勝、そして総合優勝を目指すにあたり、どういうオーダーが理想なのかを考えていたんです。
その時、響から『僕が5区に行くよりも、出雲、全日本の時のように前半から流れを作ったほうがチームにとってはプラスになるので2区で』という提案があったのです。私もそういうオーダーを組みたいというイメージがありました。そこでお互いの考えがマッチし、響を2区に配置することを決めました」
【5区を思うようなスピードで上れない】
吉田は、その席で榎木監督と十分に話し合い、お互いに納得したうえで5区をあきらめ、スッキリとした気持ちで2区に臨むことができたという。
ただ、それでも吉田の5区への思い入れやこだわりが非常に強かったことを考えれば、本当にそうだったのかと訝しんでしまう。単にふたつの駅伝で結果を出し、平地での走力がついたから"花の2区"に鞍替えというのは、吉田のポリシーとはちょっと違うと感じたからだ。
「そうですね。僕の目標は山の神になることであり、それは少なくとも夏までは揺るぎなかったんです。だから、5区をあきらめ、2区に変更する決断をする際は、葛藤はもちろん、なかなか自分でも納得しきれない部分があったんです。でも、今回の決断で大きなポイントになったのは、5区を思うようなスピードで上れないと感じたからです」
出雲、全日本で結果を出し、平地での走力がよりいっそう高くなったことを考えれば、山を駆け上がるスピードも当然、増していると考えがちだ。2代目・山の神の柏原竜二さんも「山の走力を上げるには、山にとらわれるのではなく、平地での走力を高めていくことが大事」と語っていた。吉田も学生トップクラスの走力を身につけ、山の神になるための準備は万端のように見えた。
だが、当の本人が感じたのは違和感だった。
「東海大から(3年時に)創価大に転校し、環境が変わって練習していくなかで平地の走力が抜群についたんです。でも、そのぶん、山の走力が頑張ってもなかなか伸びなかったんです。なんか、以前のようにスイスイいけないんです。正直、何なんだろうって思いました。たぶん、平地で走れるようになって、体の使い方とか筋力とかが山の仕様じゃなくなってしまったんです。夏まではしっかり山の練習をしていたんですけど、それでも山でスピードが伸びないので、監督と相談しました。自分のためにも、チームのためにも2区がいいということになり、2区を走ることになったんです」
より走れるようになったから5区をあきらめる。痛しかゆしだ。吉田が最後まで葛藤したのも理解できる。ただ、2区変更にはもうひとつ理由があった。
「昔の自分だったら、走れるようになったし、絶対に5区だと言い張っていたと思います。でも、創価大に転校してきて、吉田正城前主務や志村健太前キャプテン、チームのみんなに本当にお世話になりましたし、選手としての力をつけてくれました。その恩返しじゃないですけど、僕は、このチームで何がなんでも勝ちたいと思ったんです。自分の夢よりも往路優勝して、総合優勝するために自分ができること、チームに貢献できることを考えると、自分が2区で走ることが一番だと思ったんです」
【5区の練習をやってきたのが2区に生きた】
例年同様、今回の2区も各大学のエースが顔を揃えた。「出雲や全日本を走る前なら走るのが怖いと思っていたでしょうね」と吉田は苦笑するが、そのふたつの駅伝で各大学のエース級と互角以上に渡り合えたことが大きな自信になった。
「初めての2区は緊張も不安もなかったです。むしろ篠原(倖太朗)選手(駒澤大・4年)や平林(清澄)選手(國学院大・4年)、黒田(朝日)選手(青山学院大・3年)、(ヴィクター・)キムタイ選手(城西大・3年)とすごい人ばかりで、この人たちと走れるんだというワクワク感を持って臨めました」
17位でタスキをもらうと、エンジン全開で前を追った。走りに集中し、14㎞手前からの権太坂で10位にまで順位を上げ、18㎞過ぎには青山学院大の黒田の背後につき、驚異的なまくりを見せた。20㎞付近からの"戸塚の壁"では上りの強さを見せつけ、リチャード・エティーリ(東京国際大・2年)に続く区間2位(区間新)、日本人歴代最高記録の1時間05分43秒という驚異的なタイムをたたき出し、チームを4位にまで押し上げた。
「プランとしては15㎞まで落ち着いて、そこからペースアップして、残り3㎞で全員を抜いてやるという気持ちで走っていました。20㎞過ぎ、黒田選手に一度離されてしまったんですけど、"戸塚の壁"では追いついて。それは自分が5区の練習をやってきたのが生きたと思いますね。(区間タイムで)1秒差というギリギリのところで黒田選手に勝てて、5区のためにやってきたことがムダじゃなかったんだと思えてうれしかったですし、このチームで(2区の)日本人歴代トップを飾ることができて良かったです。あっ、(東京国際大のイェゴン・)ヴィンセント選手の区間記録(97回大会、1時間05分49秒)を抜きたいと思っていたので、それもできて良かった(笑)」
2区で記録と記憶を残した。榎木監督が考えたオーダーで重要な役割を果たし、優勝は果たせなかったが、チームに勢いをもたらす快走を見せた。出雲以降、吉田の走りを見るのが楽しみだという人が増えたが、首を振って懸命に走る姿をもう大学駅伝で見られないのはちょっと寂しい。そう本人に伝えると、こう答えた。
「いやぁ(苦笑)。でも、疲れましたけど、楽しかったです。悔いはありません。これからは上のレベルの選手と戦えるワクワクがあるので楽しみです」
山の神にはなれなかったが、2年間で創価大のエース、救世主になった。創価大駅伝部の歴史において、「吉田響」の名前は永遠に語り継がれていくに違いない。