引退インタビュー森脇良太(愛媛FC)中編現役生活20年の原点「公園の水道をシャワー替わりに...」 決してエリート街道を歩んできたわけではない。しかし、遠回りしたからこそ、森脇良太はサッカー選手として20年間もプレーできたという。 ユース時…

引退インタビュー
森脇良太(愛媛FC)中編

現役生活20年の原点「公園の水道をシャワー替わりに...」

 決してエリート街道を歩んできたわけではない。しかし、遠回りしたからこそ、森脇良太はサッカー選手として20年間もプレーできたという。

 ユース時代に認められた才能は、愛媛FCで2年間かけて少しずつ育ち、2008年にサンフレッチェ広島で一気に開花する。そのきっかけは「人生の恩師」との出会いだ。

 多大な影響を受けて急成長し、日本代表まで上り詰めていった過程を振り返る。

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森脇良太が恩師・ミシャについて思いを語る

 photo by Sano Miki

── 愛媛の2年間を経て、2008年に広島に戻ってきます。帰って来いと言われた時はどんな気持ちでしたか。

「広島に帰れるうれしさと喜びが強かったし、その年の広島はJ2に落ちた時でしたけど、なんとか広島を盛り上げたい、貢献したいという気持ちでした。その時のメンバーには槙野(智章)もいたし、(柏木)陽介もいて、自分よりも年下のメンバーが主力として活躍していたので、あいつらには絶対に負けないという思いで広島に帰ったのを今でも覚えています」

── 復帰した広島では、人生の恩師とも言えるミハイロ・ペトロヴィッチ監督との出会いがありました。特殊なスタイルのサッカーにフィットするのは難しかったのでは?

「練習が複雑でしたからね。それこそゲームもオールワンタッチだったり、ビブスの色を変えたりして、いろんな制限があったなかで、かなり頭を使いました。

 最初の頃はついていくのに必死で、とにかくガムシャラにやっていましたよ。半年ぐらいは試合に出られなかったんですけど、出られないことも納得していたというか、もっともっと力をつけないとダメだなっていうのは理解していました」

── シーズン途中からポジションを掴みましたが、どのあたりを評価されたと思いますか。

「ミシャは『あなたのいいところは、攻撃的にボールにかかわることができること。パスを前につけられること。そこをしっかりと出してほしい』と言ってくれていました。僕もそこには自信があったので、自分のプレーを表現するという意味ではやりやすかったかなと。監督の求めるものと、自分のスタイルがマッチしたっていうのはありましたね」

【ミシャの言葉に何度も救われた】

── 最終ラインからつなぐサッカーなので、うしろの選手のパスミスから失点することもけっこうありましたよね。

「僕も何度もやらかしましたよ。それこそサポーターからも、いろいろ言われました。当時、僕はブログをやっていたんですけど、コメント欄に『なんでお前が試合に出ているんだ。とっとと広島からいなくなれ』って書かれたこともありましたから(笑)。

 でも、僕がミスを恐れずにやってこられたのも、ミシャがいたからです。ある試合で自分のバックパスをかっさらわれて、そこから失点して負けたことがあって、僕は涙を流しながらミシャに謝りに行ったんです。

 だけど、ミシャは『なんで謝るんだ。このスタイルは俺が求めているスタイルなんだ。俺がやってほしいと言っているんだから、何も気にする必要はない。何回でもミスしたっていいんだ』と言ってくれて。その時に、こんなことを言える監督がいるのかって、身体に電気が走るくらいの衝撃を受けました。

 選手のミスは俺のミス、俺の責任だって言ってくれる監督なので、僕は何度も救われましたし、自分の可能性を広げてくれました。やっぱりミシャとの出会いは、自分のなかで特別でしたね」


森脇良太にとってミシャは特別な存在

 photo by getty Images

── 森脇選手だけではなく、槙野選手や柏木選手、青山敏弘選手など、多くの選手たちがミシャとの出会いに感謝していますよね。

「みんな、そうだと思いますよ。ミシャに指導していただいた選手はみんな言うと思うんですけど、サッカーがうまくなっていくことを実感しながらプレーできるので、本当に楽しいんですよね。だから可能性があるのであれば、多くの選手にミシャの指導を受けてもらいたいと思います」

── 引退はミシャにも伝えたのですか。

「通訳のダイさん(杉浦大輔)を通じてですけど、伝えました。ミシャがいなければ、自分は20年間もやってこられなかったと思っているので。そういった意味では、本当に師匠であり、恩師です。自分のサッカー人生を変えてくれた存在ですよ」

【結婚式どころじゃなくて、すぐに帰国】

── 広島時代はミシャの下でタイトルを獲れませんでしたが、日本代表に名を連ねるまでに成長を遂げました。

「もう、びっくりですよね。自分が日本代表に参加できるなんて、夢にも思っていませんでしたから」

── 2011年のアジアカップで当時アルベルト・ザッケローニ監督が率いる日本代表に初めて呼ばれたんですよね。

「最初は練習生だったんですけどね。アジアカップの前に代表チームが国内合宿をしたんですけど、人が足りないからJリーガーの練習生を何人か入れたいという話があって。でも、シーズンオフだったのでなかなか人が集まらなくて、そこで僕にも声がかかったんですよ。

 こんなチャンスは滅多にないじゃないですか。もう練習生だろうが、靴磨きだろうがなんでもいいから、とにかく行かせてほしいと言って、参加させてもらいました。

 それで合宿が終わって、代表チームはアジアカップに向かったんですけど、僕はそのままオフに入ったんです。そしたら、代表メンバーにケガ人が出たということで急遽、追加招集されたんです。

 その時、実は兄貴の結婚式がグアムであったので、家族で行っていたんですよ。そこに追加招集の話があったから、もう結婚式どころじゃなくて、すぐに帰国して、準備して、あたふたしながらカタールに向かったことを覚えています」

── 練習参加しておいてよかったですね。

「そうなんですよ。そもそも断る余地なんかまったくなかったんですけど、代表選手と一緒に練習できるなんて、こんなに幸せな時間ないじゃないですか。それが1日だろうが、1時間だろうがよかったんですよ。このチャンスを逃すわけにはいかなかったですね」

── それが代表入りにつながるわけですから、驚きのサクセスストーリーですよね。しかも代表招集歴ゼロで、あのような国際大会のメンバーに選ばれることはかなりのレアケースです。

「普通ならあり得ないですよね。一度は手もとで見た選手を選ぶはずですから。

 練習参加した時も、とにかく自分の色は出したいなと思って、アグレッシブなプレーを意識しました。声出しも自分の特徴だと思っていたので、練習生だけど、誰よりも声を出してチームを盛り上げたという自負があります。

 やっぱり何かインパクトを残さないとダメじゃないですか。せっかくの機会ですから」

【本田圭佑がいるじゃん、みたいな】

── 盛り上げ役としても評価されたのかもしれないですね。

「本当に、それもあると思うんですよ。むしろ、9割ぐらいはムードメーカーとして呼ばれたと思います(笑)。あの時は槙野がケガで離脱して、(酒井)高徳も離脱したので、ガヤがいなくなっちゃったんですよ。

 もしかしたら、ザック(アルベルト・ザッケローニ)さんじゃなくて、代表スタッフが選んだのかもしれない。盛り上げられる奴がいなくなったから、どうしようかとなって、そういえばこの前、うるさい奴がいたなと(笑)」

── あの時のアジアカップメンバーは、同年代の選手が多かったですよね。初招集とはいえ、溶け込みやすかったのでは?

「いやいや、彼らは海外でバリバリやっていたし、スーパースターでしたから。自分とはレベルの差があったので、同年代ではあったけど気後れしましたよ。『おっ、本田圭佑がいるじゃん』みたいな(笑)」

── 敬語を使ったり?

「最初はなんて呼んだらいいかわからなかったですね。同級生だから『本田』でいいんでしょうけど、『本田さん、かな?』とも思いながら。

 でも、最初の会話は『お願いします』って、敬語でしたね。向こうは、『おう、よろしく』みたいな感じでしたけど。『あれ、俺は年下だったかな?』って(笑)。でも、やっぱりオーラがすごかったですね。

 ほかにも(長友)佑都もいたし、(香川)真司や岡ちゃん(岡崎慎司)もいましたけど、彼らと過ごしていろんなことを話すと、やっぱり意識が高いし、本気でトップを取りたいと思っている選手はこうも違うのか、と痛感させられましたね」

── 初招集で優勝を経験するなんて「持っている男」ですよね?

「いやいや、自分は1試合も出てないので、そこに貢献できたかわからないですけど」

── ガヤ効果があったのでは?

「もちろん、メンバーに選ばれている以上はチームのためにという思いがありましたし、サブメンバーでもベンチから盛り上げていくことはできます。それが優勝するチームには絶対に必要だと思っていたので、試合に絡めずに悔しい気持ちがあった一方で、出ている選手を盛り立てながら、いい雰囲気を作ることが自分の役割だと思っていました。それを全うできたという意味では、優勝に貢献できたなと思っているんですよね」

【伝統の「森脇芸」が誕生したきっかけ】

── あの大会で「森脇芸」と称される伝統芸が生まれたんですよね(※優勝時に森脇選手がカップを掲げ、ほかの選手が反応しないお約束のネタ)。

「いや、あの時はまだ生まれてないです。でもアジアカップの時も、長谷部(誠)さんとか佑都とかが、『お前、前で何かやれよ』みたいなことを言ってくれて。さすがに試合に出てないので、遠慮したんですけどね」

── 2012年の広島の優勝時が初披露ですか?

「広島の時もやってないです。あの時はシャーレを掲げられなかったんで。僕も掲げたいなと思ったけど、(佐藤)寿人さんとかアオちゃん(青山敏弘)とか森﨑兄弟(和幸・浩司)とか、主役はいっぱいいましたからね。自分はまだ若いほうだったので、先輩方をリスペクトしないといけなかったんですよ」

── では、伝統芸の誕生は浦和時代ですか。

「そうですね。たしか2015年のファーストステージで優勝した時が、最初だったかと。槙野が仕込んだんですよ。そのあとに、ルヴァンカップの時もやったし、天皇杯でもやったし、ACLでもやりました。やったというよりも、やられているんですけどね(笑)」

── それを今や、ほかのチームもマネするようになっています。

「ありがたいですね。槙野が発起人で作ってくれたんですけど、自分の芸として広がってくれているのは、本当にうれしいことです」

(つづく)

「世界でも通用する監督になりたいと本気で思っています」

【profile】
森脇良太(もりわき・りょうた)
1986年4月6日生まれ、広島県福山市出身。2005年にサンフレッチェ広島ユースからトップチームに昇格。翌年から愛媛FCで2年間プレーしたのち、2008年に復帰してJ1優勝(2012年)に貢献する。2013年に浦和レッズへ移籍し、ルヴァンカップ、ACL、天皇杯を制す。その後、京都サンガF.C.を経て2022年から愛媛で再びプレーし、2024年シーズン後にユニフォームを脱いだ。日本代表歴=3試合得点。ポジション=DF。身長178cm、体重72kg。