連載 怪物・江川卓伝〜大学時代から知る鹿取義隆の回想(前編)過去の連載記事一覧>> 1980年代後半は巨人、そして90年代前半は西武のリリーバーとして活躍した鹿取義隆は、江川卓とは大学時代から縁があった。年齢的にはひとつ違いで、鹿取が明治大…

連載 怪物・江川卓伝〜大学時代から知る鹿取義隆の回想(前編)

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 1980年代後半は巨人、そして90年代前半は西武のリリーバーとして活躍した鹿取義隆は、江川卓とは大学時代から縁があった。年齢的にはひとつ違いで、鹿取が明治大に入学した時、江川は法政大2年生で"神宮の星"として活躍していた。鹿取が振り返る。


同じ年に巨人に入団した江川卓(写真左)と鹿取義隆

 photo by Kyodo News

【江川卓は正真正銘の二刀流】

「僕が高知商2年の時に銚子で千葉国体が開催されたんです。前の試合で作新学院がやっていて、そこで江川さんを初めて見たのですが『すげぇ』のひと言。田舎もんの高知県民からしたら、今まで見たことのないボール。『ボール落ちねぇ。打てるわけねえよ』って。異次元のボールを見せられて、感動さえ覚えました。江川さんは我々のヒーローです」

 江川の球を初めて見た時の衝撃は言うに及ばす、その第一印象は鹿取もほかの選手と同様だった。そして大学に進むと、江川の圧倒的な存在感を見せつけられることになる。

「僕が入学した年、明治は春秋連覇を達成したんです。ただ、それから江川さんが卒業するまで、明治はずっと(法政に)勝ってない。江川さんのほかにも、夏の甲子園優勝の広島商の金光興光さん、準優勝の静岡・植松精一さん、箕島の島本啓次郎さんといった甲子園のスターがたくさんいて、すごく豪華なメンバーでした。そりゃ強いですよね。1戦目は江川さんが投げて(明治が)負ける。2戦目に法政は鎗田英男さん、中林千年さん[俊寺1]という左の投手が出てきて、そこで勝つことができても3戦目はまた江川さんですから......」

 東京六大学リーグ戦は勝ち点制で、先に2勝したチームに勝ち点1が与えられる。法政大は1戦目に江川が先発して勝ち、2戦目は状況によって江川がリリーフで登板。2戦目を落としたとしても、3戦目は江川が先発して勝ち点を奪うといったように勝ちパターンを確立していた。

 百戦錬磨の明治大の指揮官・島岡吉郎は、そんな法政大をどう攻略しようとしていたのか。鹿取に"江川攻略法"を聞くと、こんなエピソードを教えてくれた。

「攻略法は、部室の壁に『打倒・江川』と書かれた紙を貼っていただけです(笑)。いつもは『打倒・早稲田』とか『打倒・慶應』とか書くんですが、法政だけは大学名じゃなく『打倒・江川』。後にも先にも、個人の名前を書いたのは江川さんが初めて。もちろんスコアラーたちが試合を見に行ってデータを集めるんですけど、それでも打てない。

 御大(島岡監督)は江川さんについて、当時から『ピッチャーで1億、バッティングで1億』と絶賛していました。江川さんが大学2年の時、御大が全日本の総監督をやったこともあり、間近で見ているんですよね。めったに褒めないあの御大が認めるんですから、やっぱり別格ですよね」

 さすがの島岡御大も、江川の飛び抜けた才能を認めるしかなかった。とはいえ、いつの時代も明治が目指すのはリーグ戦制覇である。江川と対戦する時も、最初からあきらめているわけではない。しかし実際に対戦すると、二塁まではランナーを進めることができるがホームには還れない。終わってみればお手上げ状態だった。

「ピッチングはもちろんですが、江川さんはバッティングもすごかった。下半身が強いから体が突っ込まず、クルッと軸を使って簡単にホームランを打っちゃう。とにかく身体能力が高く、正真正銘の二刀流ですよ。江川さんよりも袴田(英利)さんのほうが投げやすかったですから。ほかにも金光さん、植松さん、島本さんなど錚々たるメンバーがいましたが、一番マークしたのは江川さんですよ。もう『何、この人??』ですよ」

 明治大はいくらバッティングのいいピッチャーがいたとしても打順は下位と決まっていたが、江川は4年時に法政大の5番を打つほどパンチ力があって、ミート力にすぐれていた。タイミングを外されても、下半身が粘れるから軸がブレずにスタンドまで運んでしまう。桁違いの能力に、相手投手はただただ舌を巻いた。

【万全じゃなくても誰も気づかない】

 法政時代の江川に関して言えば、大学2年秋の明治戦の前に肩を痛め、急遽先発を回避したことがあった。江川曰く、その時に痛めた肩が完全には治らず、以後100%の状態に戻らなかったという。そのことについて、鹿取はどう感じていたのか。

「江川さんのなかで100%じゃなかったとしても、周りは誰も気づかないですよ。もともと、ランナーが出るまでは75から80くらいで投げていましたが、それでもなかなか打てないわけですよ。それで得点圏にランナーが進むとギアを上げていたわけですが、そのさじ加減というのは江川さんにしかわからない。見ているほうは、いつもの江川さんとしか思っていない。『あれで壊していたの?』って感じですよ」

 そして鹿取はこう続けた。

「たとえば、ほかの大学の選手がケガをした、肩を痛めているらしいという情報は一応入ってくるんですけど、江川さんに関してはまったく入ってこなかった。実際に故障していたとしても、ボールを見たら『本当? いや、ウソだろう。あれだけ投げているし、そんなことないよ』って思っていたはずです。とにかく、万全じゃなくてもとんでもないボールを投げていました」

 表向きは肩甲骨周辺の筋肉痛と発表したが、実際は剥離骨折だった。ただ、それが致命傷になったのかどうかは江川にしかわからない。現に、大学3年から超人的な活躍を見せ、プロ入り後も2年目に16勝、3年目に20勝と2年連続最多勝に輝き、この頃の映像を見ると異常なまでのボールの伸びをしている。

 本来なら、もっとすごい球を投げられていたのだろうか。江川のことを語ると、どうしても"たられば"の話が出てしまう。それだけ無限の可能性を秘めていたということだろう。

 その後、江川は1年の浪人を経て、"空白の一日"というドラフト史に残る前代未聞の出来事の末に巨人入り。同年、鹿取もドラフト外で巨人入団を果たしたのだった。

(文中敬称略)

つづく>>

江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している