サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような、「超マニアックコラム」。今回は「3人と2人じゃ大違い」。あるルールの変更で、サッカーが世界中で愛されるスポーツになったという。…

 サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような、「超マニアックコラム」。今回は「3人と2人じゃ大違い」。あるルールの変更で、サッカーが世界中で愛されるスポーツになったという。もしかしたら、ペレも、マラドーナも、メッシも、クリロナも、そしてエムバぺも、ヤマルもサッカーをやっていなかった可能性すらある、意外と知らない「サッカーの大革命」にスポットを当てる!

■リーグ2連覇のアイデアマンが「終止符」

 この後、サッカー界はしばらく混乱し、得点数の多いリーグが続く。その混乱に終止符を打ったのは、1925年夏にアーセナルの監督に就任したハーバート・チャップマン(1878-1934)だった。ハダーズフィールド・タウンでチームディフェンスを徹底させ、「革命前」にイングランド・リーグ2連覇を達成したチャップマンは、ホームスタジアム最寄りの地下鉄駅の駅名を「アーセナル」と変えるなどのアイデアマンだったが、もちろん、戦術面のアイデアも豊富だった。

 チャップマンは就任と同時にサンダーランドでプレーしていたFWチャールズ・バッカンを獲得。バッカンは最初のシーズンで19ゴールを挙げて前年20位だったアーセナルの2位躍進に貢献した。もっともリーグ得点王は、「革命」後の守備の混乱のなか、新記録の43ゴールを決めたブラックバーン・ローバーズのエドワード(テッド)・ハーパーだった。ちなみに、ブラックバーンのシーズン総得点は59で、最終順位は12位。ハーパーは1人でクラブの総得点の4分の3近くを記録したことになる。

■センターバックの「新たな役割」とは…

 しかし、バッカンの貢献は、19ゴールにとどまるものではなかった。「革命後」の守備の混乱のなかでプレーしながら、彼は「センターハーフの役割を変えたらいいのではないか」と考えていた。そこでチャップマンに相談した。チャップマンはその発想に大きなヒントを得て、センターバックをこれまでの「中盤の王者」の仕事から解き放ち、「センターフォワード・ストッパー」の役割を専門に担わせることにしたのだ。

「センターハーフ」を2人の「フルバック」の間に下げ、同時にFWのひとり(インサイドライト)に「ハーフバック」の役割を担わせる。いわば「3-3-4」システムである。そして、それをさらに発展させ、FWの1人(インサイドレフト)も中盤に引かせ、2人の「ハーフバック」と2人の「インサイドフォワード」で「2-2」のラインをつくって中盤を強化する。必然的にフォワードは両ウイングとセンターフォワードの3人となる。「WMシステム」の誕生である。

 このシステムを引っ提げてアーセナルは1930年代には無敵のチームとなり、3連覇を含む5回のリーグ優勝を遂げる。アーセナルの快進撃とともに他のチームもWMシステムを採用するようになり、守備の人数と攻撃の人数が完全に釣り合った(全選手が互いにマンマークをする)WMシステムは欧州のサッカーを席巻することになる。

■ブラジルの背番号に残る「発展の痕跡」

 後に1958年のワールドカップでブラジルが使った「4-2-4システム」は、「ピラミッドからWMへ」という欧州の発展とは、ややルートが違う。これは推測でしかないが、ブラジルでは「ピラミッド」からWMを経ずに「4バック」に発展したように思える。すなわち、2人の「フルバック」の両側に2人の「ハーフバック」が下がって「ウイング」に対する形になり、「センターハーフ」は中盤に残った。そしてフォワードから1人引くことで「4-4-2システム」を形成した…。

 この発展の痕跡は、1970年代まで生きていたブラジルの伝統的な背番号の付け方に残っている。両センターバックが「2」と「3」をつけ、右サイドバックは「4」、左サイドバックは「6」、MFは「5」と「8」で、FWラインは右から「7」「9」「10」「11」である。1970年ワールドカップにおけるブラジル代表の先発予定メンバーで確認してほしい。

 ちなみに、WM時代以来のイングランドの背番号の振り方は、右フルバック(右サイドバック)が「2」、左フルバック(左サイドバック)が「3」、そのふたりの中央に入るセンターハーフ(3バック時代になっても、この名称が最も一般的だった)が「5」、中盤のサイドハーフが「4」と「6」、インサイドフォワードが「8」と「10」、右ウイングが「7」、左ウイングが「11」、センターフォワードが「9」だった。

 1925年のオフサイドルール改正はまさに「革命」だった。そこからWMが生まれ、「4-2-4」が生まれ、さまざまな戦術が開発され、発展していった。オフサイドを残したこと、それを「2人制」にしたことが、今日のサッカーの繁栄につながったのは間違いない。

 オフサイドルール自体は、他にもいくつかマイナーな改正があったが、1907年の「オフサイドになるのは相手陣のみ」も、1990年の「並びはOK」の改正も、サッカーをサッカーたらしめた1866年の改正と、サッカーの戦術に大きな影響を与えた1925年の「革命」と比較したら些細なものでしかない。

■日本には「ベルリンの奇跡」とともに…

 ところで、日本のサッカーはこの「革命」にどう対応したのだろうか。現在の日本サッカー協会は1921(大正10)年に「大日本蹴球協会」として誕生したが、FIFAに加盟するのは1929(昭和4)年のことで、この「革命時」にはFIFAからの直接的な情報はこない。

 しかし、IFAB年次総会の翌々日、1925(大正14)年6月14日付けの新聞には、外電で「オフサイドが従来3人とあったものが、2人に改正された」ことが伝えられていた。それを受けて、当時最も高いレベルで競技されていた「ア式蹴球東京コレッヂリーグ」(1924年にスタート)では、1926年1月30日の早稲田大学対慶応大学の試合で、初めて「新ルール」での試合が行われたという(日本蹴球協会編『日本サッカーのあゆみ』1974年講談社)。

 この後、大日本蹴球協会はFA発行の冊子(実質上のルールブックだった)を確認、1926(大正15)年版のルールブック発行をもって「2人制」のオフサイドを採用した。

 とはいっても、当時は国際試合は「極東選手権」への出場だけで、「革命後」のサッカーが英国や欧州どう発展しているのか、具体的に知るよしもなく、海外雑誌などを通じてWMという新システムがイングランドで成功しているというか細い情報ははいってきたものの、具体的にどうプレーするのか、想像はつかなかった。

 1936年にドイツのベルリンで開催されたオリンピックに出場した際、日本代表は現地に到着してから地元クラブと行った3試合でこの新システムを吸収し、スウェーデンとの初戦に臨んだ。スウェーデンに勝った「ベルリンの奇跡」は、日本サッカーに後年までの心の支えとなるのだが、同時に「革命」の産物であるWMシステムも日本にもたらしたのである。

 1925年に欧州で起こった「サッカー革命」の戦術的波及が「極東」の日本に至るまでに11年もの歳月を必要としたことに、「100年」という時間の長さを感じる。

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