2025年は令和7年だが、昭和(1926―1989年)で数えると100年になる。"昭和100年"の節目を記念して、昭和の大相撲名勝負を振り返る。* * * 昭和51年14日目。1敗で独走していた元大関の西前頭4枚目・魁傑が、東同・高見山に…
2025年は令和7年だが、昭和(1926―1989年)で数えると100年になる。"昭和100年"の節目を記念して、昭和の大相撲名勝負を振り返る。
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昭和51年14日目。1敗で独走していた元大関の西前頭4枚目・魁傑が、東同・高見山に勝ち、2度目の優勝を果たした。大関陥落後の平幕Vは当時、史上初めてだった(令和2年7月場所に照ノ富士も達成)。立ち合い、もろ差しになると、素早く右のすくい投げ。高見山が残すと右から寄って、再びすくい投げ。高見山はこらえきれずに横転した。満員御礼の館内は歓声と拍手で揺れた。
「大関から落ちてコロコロ負けてばかりいた時、どうしてこんなに応援をしてくれるのだろうと不思議だった。苦しかった時のファンの励ましはうれしかった」と感謝した。50年初場所後、大関に昇進したが肝炎、腰痛、肘の故障に次々と襲われた。同九州場所で2場所連続の負け越しとなり陥落。51年初場所は関脇で10勝以上を挙げれば大関に特例復帰できたが、ここでも7勝8敗で負け越した。
一時は西前頭6枚目まで下がり、関係者から暗に引退を勧められたが、それでも「石にかじりついても大関にカムバックする」と宣言。稽古場には関取衆で最も早く現れ、巡業でも最後まで土俵から離れなかった。この秋の復活劇をきっかけに、51年九州場所では関脇で11勝、翌年初場所も11勝を挙げ大関に返り咲いた。
「休場は試合放棄」の名言を残し、初土俵から937回連続出場で引退するまで休みは1度もなかった。引退後は年寄・放駒として平成22年8月、野球賭博問題などで揺れる日本相撲協会の理事長に就任。23年2月には八百長問題が発覚。人気低迷などピンチに追い込まれたが「クリーン魁傑」と呼ばれたその誠実さで難局に立ち向かった。
弟子だった芝田山親方(元横綱・大乃国)は「やせていて、倒れるんじゃないかと心配した」と理事長の当時を振り返った。改革に反対する勢力からは、罵声を浴びせられたこともあったという。「(大相撲を)50年、100年守っていくためにはどうするか考えていた」と芝田山親方。多くの資料に目を通し、粘り強く話し合い、相撲協会を何とか軌道に乗せた。理事長退任後、66歳で亡くなったが、惜しむ声は多かった。(久浦 真一)
◆魁傑 將晃(かいけつ・まさてる)本名・西森輝門。昭和23年2月16日、山口・岩国市生まれ。日大を中退し、41年秋に花籠部屋から初土俵。46年秋、新入幕。50年春、新大関。在位5場所で陥落も52年春に再昇進し、同年九州で再び陥落。54年初で引退。幕内優勝2回。56年に放駒部屋を創設。横綱・大乃国らを育てた。平成22年8月に理事長就任し、約1年半で退任した。26年5月に死去。