2025年は令和7年だが、昭和(1926―1989年)で数えると100年になる。昭和100年の節目を記念して、昭和の大相撲名勝負を振り返る、 横綱・玉の海が独走した。14日目に大関・大麒麟を破り、6度目の優勝を決め、千秋楽の横綱・北の富士…

 2025年は令和7年だが、昭和(1926―1989年)で数えると100年になる。昭和100年の節目を記念して、昭和の大相撲名勝負を振り返る、

 横綱・玉の海が独走した。14日目に大関・大麒麟を破り、6度目の優勝を決め、千秋楽の横綱・北の富士に勝ち、初の全勝優勝を成し遂げた。この場所、北の富士は8勝と成績は上がらなかったが、玉の海との横綱決戦は3分近い大熱戦となった。

 立ち合い、突っ張った北の富士が得意の左差しで、右上手を引き、玉の海は上手が取れない。上手をさぐるところを、上手投げで防がれる。だが、北の富士の寄りを、左からの下手投げを打って残し、上手をつかむ。玉の海は、腰を振り北の富士の上手を切ると、一気に寄り切った。

 「初優勝の時と同じようにうれしい。横綱になって初めて地元で迎えた昨年(昭和45年)が悪かっただけに、やっと地元のファンに恩返しができた」。玉の海は愛知県蒲郡町(現蒲郡市)出身でご当地場所、前年9勝6敗だっただけに、喜びもひとしおだった。

 右四つになると抜群の安定感を誇っており、昭和45年春場所に横綱昇進後、同年秋場所から4場所連続で14勝1敗を挙げるなど、大横綱の双葉山の再来との声も上がった。ライバルだった北の富士さんは「だいたい組み勝つんだけど、それからが大変だったね。足腰が柔らかくて抜群によかった。つりもうまかった」と、その強さを振り返った。

 だが、悲劇が玉の海を襲う。この場所後に、急性虫垂炎を発症、薬で散らしながら、秋場所を強行出場し、10月にまで手術を延ばした。手術を受け、退院直前の10月11日、容体が急変、肺血栓などで帰らぬ人となった。責任感の強さから、夏巡業や本場所に出場したことで、手術が遅れたことが致命傷になったとの見方が広がった。北の富士さんは「何事においても、我慢強い性格だったから、命を落とす結果につながったんじゃないかな。あの時亡くなってなければ、彼はもっと強くなったに違いない」と惜しんだ。(久浦 真一)

 ◆玉の海 正洋(たまのうみ・まさひろ)本名・竹内正夫。昭和19年2月5日、愛知・蒲郡市生まれ。二所ノ関部屋から昭和34年春場所、初土俵。38年秋、新十両。39年春、新入幕。41年秋場所後に大関昇進。45年初場所後に第51代横綱に昇進。現役中だった46年10月11日、虫垂炎手術後に体調が悪化し「右肺動脈幹血栓症」で死去したため、同年秋場所を最後に引退。幕内在位は46場所で469勝221敗。現役時代の身長、体重は177センチ、134キロ。