サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような、「超マニアックコラム」。今回は「3人と2人じゃ大違い」。あるルールの変更で、サッカーが世界中で愛されるスポーツになったという。…

 サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような、「超マニアックコラム」。今回は「3人と2人じゃ大違い」。あるルールの変更で、サッカーが世界中で愛されるスポーツになったという。もしかしたら、ペレも、マラドーナも、メッシも、クリロナも、そしてエムバぺも、ヤマルもサッカーをやっていなかった可能性すらある、意外と知らない「サッカーの大革命」にスポットを当てる!

■わずか1語の変更で「明治維新」

 2025年は「サッカー革命100周年」の記念すべき年だ。

 1925年を境にサッカーは、誕生からそれまでの62年間とはまったく違ったものとなった。半世紀近く使われてきたシステム(選手の並び方)は使い物にならなくなり、「革命」に対応した新しいシステムが生み出されて一世を風靡したものの、やがて、そこからさまざまな考え方のサッカーへと発展していく。サッカーをより自由にし、戦術的多様性を持った競技へと発展させたのは、まさにこの「革命」だった。

 革命を起こしたのは、サッカーのルール条文のわずか「1語」の変更だった。1924/25シーズンのルールでは「three」とされていた語句を、1925/26シーズンには「two」に変えたのである。ルール第6条、「オフサイド」に関する条文は、当時134語で成っていたが、変更されたのは、まさにこの「1語」だけだった。

 これが、日本史でいえば、明治維新のようにあらゆるものを変えてしまったのである。

■「未来の英国紳士」のために誕生

 そもそもオフサイドのルールは、英国のパブリックスクール(王立など、公立の寄宿制男子中高等学校。貴族ではない富裕階級=身分を問わず=の子弟のためにつくられた)で教育の一環として行われていた「フットボール」のなかで誕生したと言われている。

 全員で力を合わせてボールを相手ゴールに向かって運ぶフットボールは、教育に役立つと考えられた。パブリックスクールが送りだそうとしていた「英国紳士」は、卑劣なことをしてはならない。だからボールより前(相手ゴール寄り)に行ってしまった選手は、いったんボールより後ろに戻らなければプレーに加わることはできないという、厳格なルールがつくられたのだ。

 1863年に「フットボール・アソシエーション(以降FA=イングランド・サッカー協会)」が設立されて最初のルールが書かれたときには、このとおりのルールだった。ボールより前のすべての選手はプレーに関与できないというオフサイドルールは、今日でもラグビー競技に生きている。誕生当時のサッカーは、ラグビー(まだラグビー・ユニオンはできていなかったが…)と大きな違いはない競技だったのだ。

 もっとも、当時は「オフサイド」という言葉はルール上では使われず、「ひとりの選手がボールを蹴ったとき、そこより相手ゴールラインに近いところにいる味方選手は『アウトオブプレー』になる」とある。「アウトオブプレー」とは、プレーに参加したり、相手を妨害してはならないということを意味する。

「オフサイドoffside」とは、「チーム=side=を離れてしまっている」という意味であり、パブリックスクールのフットボール時代から使われていた名称が、1863年のFA誕生以降も通称されるようになり、やがてルールブックの標題にも書かれるようになっていたのである。

■中途半端で「魅力的」なルール

 1863年12月に最終的に決められたルールが初めて改定されたのは、2年数か月後の1886年2月のことだった。長時間の会議の末、FAは「オフサイドルール」を大幅に緩和した。少なくとも3人の相手側選手が自分と相手ゴールラインの間にいれば、「アウトオブプレー」にはならないことになったのである。すなわち制限つきながら、前方の味方への「パス」が許されることになったのである。

 それまでのサッカーでは、ひたすらドリブルで進むか、大きく蹴って自分か、自分より後方にいる選手がボールを追うという攻撃方法しかなかった。

 ところが、ロンドンの「FA」と違うルールでプレーしていたシェフィールドでは、オフサイドなしでプレーしていた。FAの事務総長で、1863年のルール起草者でもあったエベニーザー・コッブ・モーリーは、シェフィールドのルールを気に入り、FAでもオフサイドをなくそうと主張した。しかしパブリックスクール時代から慣れ親しんだ「オフサイド」に愛着を持つ理事も多く、「妥協の産物」として「3人制オフサイド」が誕生したのである。

 これが第一の「革命」だった。ラグビー・スタイルのフットボールと大きな違いのなかったサッカーを個性あるスポーツとして確立させたのは、「制限付きだが前にパスしていい」という、まことに中途半端な、それでいて魅力的なルールだった。

■イングランドの「背番号」の意味

 これによってさまざまな戦術が工夫され、最終的に1880年代には「ピラミッド・システム」という選手の配置が定着した。GKの前に「フルバック」2人、「ハーフバック」3人、そして「フォワード」が5人並ぶ。今日的に表現すれば「2-3-5システム」だが、FW側から見ればGKを頂点としたピラミッドに見えることからこう呼ばれるようになった。そしてこの形がサッカーの基本となり、半世紀にわたって使われたため、「クラシック・システム」とも呼ばれることになる。

 サッカーが英国から世界に広まったのは、まさにこの時期、1880年代から20世紀の初頭にかけてだった。当然、このシステムによるプレーが伝えられ、世界の多くの国にとっては「ピラミッド・システム」がサッカーのスタートであり、サッカーそのものだった。

 蛇足だが、イングランドの伝統的な背番号も、このシステムに対応してつけられた。GKが1番、両「フルバック」は右が2番、左が3番、「ハーフバック」は右から4番、5番、6番、そして「フォワード」も右から7~11番という形である。

 そして驚くことに、「革命後」の1930年代に入っても、世界の多くの国では「ピラミッド」は変わることなく続けられていたのである。1924年のパリ大会と1928年アムステルダム大会でオリンピック連覇(その間に「革命」は起こっていたのだが…)を成し遂げ、1930年の第1回ワールドカップでも優勝を飾ったウルグアイは、ワールドカップ優勝まで「ピラミッド」で戦っていた。

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