学生時代に対戦した田中と思い出話に花を咲かせた(C)TakamotoTOKUHARA/CoCoKARAnext 22年間に渡るプロ生活に幕を下ろした和田毅。早稲田大時代に東京六大学の奪三振記録を476に塗り替え、鳴り物入りで入団したホークス…
学生時代に対戦した田中と思い出話に花を咲かせた(C)TakamotoTOKUHARA/CoCoKARAnext
22年間に渡るプロ生活に幕を下ろした和田毅。早稲田大時代に東京六大学の奪三振記録を476に塗り替え、鳴り物入りで入団したホークスでは1年目からローテーションの一角としてチームの黄金期を支えた。日米通算165勝を挙げた稀代の左腕は、ストイックな現役生活を終えた今、何を思うのか。学生時代に早慶戦で鎬を削った旧知の仲である田中大貴(元フジテレビアナウンサー)が迫った独占インタビュー。第2回では、プロへの道を切り開いた大学時代を振り返る。
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田中大貴 今回は大学時代について聞かせてください。なぜ早稲田を選んだんですか?
和田毅 早稲田は全国ベスト8以上で推薦の資格が得られたから選んだ形だね。慶応に行くのはハードルが高かった。
田中 毅の場合は甲子園ベスト8があったから、早稲田を受験する資格があったと。慶応はそれが全くないからね。
和田 慶応はそういうのがないので、すごく難しかった。AO入試はあったけど全然ハードルが高かった。早稲田の推薦も全員が全員合格ってわけではないけど、倍率からすれば全然確率が高かったから早稲田を選んだ。やっぱり、早稲田か慶応に行きたいとは思っていたから。
田中 それはなぜ?
和田 日体大の野球部だった父親と早慶戦を見ている時に「やっぱり大学野球の早慶戦は華があったな」という話を聞いていたし、自分でも試合を見た時の雰囲気というか、そこで戦いたいと思った。
田中 早稲田進学はお父さんの意思を継ぐ部分もあったと。当時の早稲田と言えば、とにかく走る量がすごいと慶応にも漏れ聞こえてきたんだけど、実際にどれぐらい走ってました?
和田 大学の時に走った量は多かったね。プロを含めても、大学2年のゴールデンウィークの時に走った量がおそらく一番。3日間、朝の9時から夕方の5時までの間に、ポール間往復20本を2セット、ポール間インターバル20本を2セット、100メートル、50メートル、30メートル、20メートルを全部20本ずつ。それをやり切っていたから。
田中 メニューが決められていた?
和田 そう、それを3日間。土橋(恵秀)に、投げなくてもいいから走れと言われてた。2日目の朝は、全身が筋肉痛で、まあ階段を下りられない。そのやばい身体でまた同じことを繰り返したからね。
田中 江尻(慎太郎)さんも走っていた?
和田 いや、俺だけだと思う。
田中 なぜ毅だけ?
和田 なんでだろう。わからない(笑)。
田中 その頃は大学で本格的に投げ始めたぐらい?
和田 大学2年の春だから、ちゃんと投げ始めたくらいだね。ただ、その3日間で投げたのは、3日目の走り終わった後にブルペンでキャッチボールをしただけ。本当にキャッチボールだけで終わったから、この練習は意味があるのかなと当時は思った。だけど、そのランニングの次の週の立教戦で完投、初めて144キロも出たからね。
田中 それは覚えてる。前年の秋の新人戦はそんなにボールが速くなかったのに、春になったら急に140キロ中盤の球を投げるようになった。すごい走っているらしいと噂が流れて、その影響で慶応の練習も厳しくなった(笑)。長田(秀一郎)もめちゃくちゃ走ってた。
和田 それは長田に申し訳ないな(笑)。
田中 当時は自分でメニューを考えて走っていると聞いていたけど?
和田 土橋が作ったメニューで二人三脚でやっていた。慣れてくると、メニューの量がどんどん増えたね。最初は20本だったのが30本になって、4年の時には40本だった。
田中 40本!?
和田 走ってたよ。タイムもインターバル50でやっていたのを40に減らしたり。
田中 ランニングシューズの底がむちゃくちゃ削れたでしょう?
和田 速攻でなくなった。リーグ戦が終わったら取り替え。春に使って潰して、夏使って潰して、秋使って潰すみたいな。
田中 当時の早稲田の野村徹監督の指導も厳しいと聞いていたから、 慶応よりも練習しているのかなとは思っていた。
和田 でも、当時の僕にとってはそれが当たり前というか、それをやればプロで活躍できるようになれると思い込んでいたところはある。
田中 プロへの想いは当時からあった? 浜田高から東京にやってきた時は「もう行ける」と?
和田 それは全くない。大学1年生の時は教職課程を取ろうと思って、実際に教職の単位は全部取ったから。
田中 あとは教育実習に行ってれば先生の資格を取れた?
和田 結局、教育実習は忙しくて行けなかったけどね。
田中 トリ(鳥谷)は、大学野球は4年しかないから時間の使い方を逆算して考えることができたと言っていた。大学の先輩やOBだったり、いろんな方と交流する中で、社会のことを教えてもらえたから思考力が高まった、とも。早稲田でそういう経験ができたと言うんだけど、毅はどう?
和田 あいつ、そこまで考えてたかな(笑)。 僕はプロに行くためにひたすら走った。特に2年の冬からは、信じてやりきればプロにいける、ぐらいの気持ちでやっていたね。
田中 毅も思考力はあったじゃない。
和田 レベルが上がればプロにいけると思っていたし、実際にだんだんレベルが上がっていって、大学ではそれほど打たれなくなってきたから、継続していけばもっと上のレベルでも通用するかもしれない、と思ったのは3年の冬ぐらいだったかな。
田中 亜細亜がすごく練習すると言われるけど、早稲田も匹敵するぐらい練習してると僕らは思っていた。 慶応が練習してないわけではないけどね。
和田 亜細亜は練習量プラスでメンタルも鍛えられるからね。マッチ(松田宣浩)からそういう話を聞いたり、自分の学生当時も実際に亜細亜の選手がやっている姿を見ていたから、メンタル的に「すげえな」というのはやっぱり感じたかな。
田中 慶応の場合は「エンジョイベースボールとは」というのを訓示のように教えられる。「楽しむためにどうする?」「野球を楽しむために努力しよう、練習をしよう」 「練習は不可能を可能にする」と。だから、本当に練習した記憶がある。あの(高橋)由伸さんがグラウンドでずっと走ってるわけだから。
和田 由伸さんも走ってたの?
田中 ずっと走ってた。それにずっとバットを振ってる。こんなに練習するんだと感じたの
は、今でも覚えてる。
和田 なるほどね。
田中 それに、当時は毅の球を打てないとプロに行けないと僕らは思っていた。
和田 そんなことないでしょ。
田中 いや思ってたよ。後藤武敏も湊川誠隆も。打った選手は結構プロに行ってるじゃない。
和田 確かに。小谷野(栄一)は六大学ではないけど、打たれたもんね。
田中 そうそう。和田毅は一つの指標だったんですよ。
【第3回に続く】
[文/構成:ココカラネクスト編集部]
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