連載第30回 サッカー観戦7000試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」 なんと現場観戦7000試合を超えるサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。 今回は日本代表の板倉滉がプ…

連載第30回 
サッカー観戦7000試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」

 なんと現場観戦7000試合を超えるサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。

 今回は日本代表の板倉滉がプレーする、ブンデスリーガのボルシアMGについて。1969年に初来日して日本代表と対戦。1960年代から70年代にかけて日本サッカー強化のためにさまざまな形で力を貸してくれたクラブでした。


ボルシアMGは1969年に来日して日本代表と対戦した

 photo by AFLO

【板倉滉はボルシアMG上位進出の立役者】

 日本代表は2024年中に行なわれたW杯アジア最終予選で圧倒的な首位。6試合で22ゴールという得点力も驚異的だが、わずか2失点(うち1点はオウンゴール)で切り抜けた守備力も見逃してはいけない。両ウイングバックに攻撃的な選手を配置しながら失点を最小限に抑えられたのは、強力センターバック(CB)陣のおかげだ。

 日本最強のDF冨安健洋は1年を通じて故障が続いたが、その不在をまったく感じさせなかった。

 33歳になった谷口彰悟は一段と安定感を増してラインを統率。町田浩樹は左サイドでの攻撃へのサポートでも大きく貢献。そして、板倉滉が圧倒的なパフォーマンスを発揮した。

 高さと技術を兼ね備えた高井幸大やブンデスリーガで経験を積み重ねているチェイス・アンリといった若手DFも成長しており、数年前までは日本代表の弱点と言われたこのポジションは、今では日本のストロングポイントになっている。

 もちろん、最近の対戦相手はアジア諸国ばかり。世界の強豪相手にどこまで通用するのかは2025年秋以降のテストマッチでの課題となるが、W杯で上位進出を狙うためにはCBの強化は不可欠だ。

 日本代表の強力DF陣のなかでも、間もなく28歳となる板倉はまさにこれからキャリアのピークを迎えようとしている。所属のボルシア・メンヘングラードバッハ(ボルシアMG)でも欠かせない存在としてフル出場を続け、ブンデスリーガでの上位進出の立役者のひとりとなっている。

 ここ3シーズンは2ケタ順位が続いていたボルシアMG。今シーズンは欧州カップ戦圏内も狙える8位という順位にいる(12月22日、第15節終了時点)。

【1969年に来日】

 ボルシアMGは1960年代から70年代前半にかけてはバイエルン・ミュンヘン(バイエルン)と並ぶ西ドイツ(当時)を代表する強豪だった。

 西部ノルトライン=ヴェストファーレン州に位置するメンヘングラードバッハは人口27万人ほどの地方都市。強豪クラブがなかったら、その都市名を知る人も少なかったことだろう。

 ボルシアMGも、南部バイエルン州の州都ミュンヘン(人口約150万人)の名門バイエルンに比べれば小規模なクラブにすぎなかった。

 そのボルシアMGを強豪クラブに育て上げたのが、第2次世界大戦後の西ドイツを代表する名将のひとりヘネス・バイスバイラーだった。

 ケルン体育大学で指導者育成に携わったのち、1964年にこの地方クラブの監督に就任すると、数多くの名選手を見出だしてブンデスリーガきっての強豪に育て上げたのだ(その後、1976年からは1.FCケルン/ケルンの監督としても活躍)。

 1969年6月、そのボルシアMGが来日した。その翌シーズン(1969-70年)にボルシアMGはブンデスリーガ初優勝を飾ることになる。1967年にブラジルのパルメイラス、1968年にイングランドのアーセナルが来日していたが、西ドイツの強豪の来日はこれが初めてのことだった。

 西ドイツは1966年のイングランドW杯で準優勝。その後、1970年のメキシコW杯で3位、1974年の自国開催の大会で2度目の優勝を飾ることになる。当時の世界最強国だった。

 また、1964年の東京五輪を前に、日本は西ドイツのデットマール・クラマーを特別コーチとして招聘。日本代表は毎年のように西ドイツに遠征して強化を図っていた。日本サッカー界にとってはまさに教師のような存在だった西ドイツから、初めて強豪クラブが来日したのである。

 ボルシアMGには西ドイツ代表級の選手が何人もいたが、なかでも注目を集めたのがDFのベルティ・フォクツとMFのギュンター・ネッツァーだった。

 ネッツァーは当時24歳、フォクツは22歳。ともに西ドイツ代表の若手のホープ的存在だった。ちなみに、ヴォルフガング・オフェラート(ケルン)はネッツァーより1歳年長で、フランツ・ベッケンバウアー(バイエルン)は1歳年少。いずれも、ドイツが1945年に第2次世界大戦で敗れた直後の貧しい時代に成長した同世代の選手たちだった。

 ベッケンバウアーはすでに1966年のイングランドW杯で活躍し、オフェラートも同大会に出場しているが、ボルシアMGのふたりは1970年代に入ってから活躍することになる。

 ネッツァーは1972年の欧州選手権で活躍。とくに、敵地ウェンブリーで行なわれた準々決勝のイングランド戦でプレーは圧巻だった。ロングレンジの柔らかなパスを駆使するネッツァーのゲームメークは世界を魅了した。

 一方、フォクツがその名を轟かせたのは1974年西ドイツW杯の時だった。オランダとの決勝戦でフォクツは相手の絶対的エース、ヨハン・クライフを密着マーク。西ドイツの優勝に大きく貢献した。

【日本サッカーの強化に力を貸してくれた】

 豪華メンバーが名を連ねたボルシアMGに対して日本代表は善戦した。

 日本代表は、1960年代を通じて毎年のようにソ連や西ドイツなどに遠征を繰り返し、夏にはシーズンオフに入ったばかりの欧州の強豪を招待して学んだ。

 その結果、1968年のメキシコ五輪で日本は銅メダルを獲得。すると、長沼健監督は「次はW杯」と公言し、W杯アジア予選に照準を合わせていた。

 ところが、ボルシア戦直前の合宿中にストライカーの釜本邦茂がウイルス性肝炎に罹っていたことが判明し、釜本は戦線を離脱してしまう。スイーパーを置いて守備を固めて前線の釜本で点を取るというのが当時の日本代表の戦い方だっただけに、釜本の欠場の影響は致命的かと思われた。

 それでも、釜本抜きの日本代表はボルシアMGに対して善戦した。

 第1戦こそ1対3で完敗を喫した日本代表だったが、広島での第2戦では、終了間際にドリブルで持ち込んだ若手FWの木村武夫のクロスがそのままゴールに吸い込まれ、日本は1対1の引き分けに持ち込んだのだ。

 日本が健闘したおかげで東京・国立競技場での最終戦(第4戦)には4万5000人の観客が集まった。その大観衆の前で、日本は激しい攻防の末に0対1で敗れはしたものの、バイスバイラー監督をして「これほど激しい試合は欧州でも珍しい」と言わしめた。



1969年のボルシアMG来日時の試合のチケット(画像は後藤氏提供)

 ただ、やはり釜本不在の影響は大きく、ソウルで開かれたW杯1次予選ではオーストラリア、韓国相手に2分2敗と1勝もできずに敗退してしまった。

 ボルシアMGは、ブンデスリーガ勢として初めて来日したクラブだったが、同時に日本代表がアウェーで初めて試合をしたブンデスリーガのクラブでもあった。

 1960年代には日本代表は毎年のように西ドイツに遠征していた。だが、当時は西ドイツ代表との対戦など想像もできない時代だった。日本の対戦相手は各州のアマチュア選抜や地方クラブなどばかり。

 1974年のW杯期間中にも日本は西ドイツに遠征した。そこで、僕もW杯の合間に観戦に行ったのだが、会場はスタジアムではなく広大な芝生が広がるトレーニンググラウンドで、対戦相手は「VfLケルン99」という警察関係のアマチュアクラブだった。

 そんな時代に、ボルシアMGは日本代表と対戦してくれたのだ。

 最初は1968年メキシコ五輪直前の遠征で、2万5000人の観衆が集まったボルシアMGの本拠ベーケルベルク・スタジアム。日本は4点を連取されたが、最後に釜本が一矢を報いることに成功した。

 また、1971年の遠征の時にも日本代表はベーケルベルクでボルシアMGと対戦し、2対4で敗れたのだが、この試合では1974年W杯で西ドイツの主力として活躍することになるライナー・ボンホフに4点を決められている。

 いずれにしても、1960年代から70年代にかけて、ボルシアMGは日本サッカー強化のためにさまざまな形で力を貸してくれたのだ。板倉の活躍はその"恩返し"と言っていいのかもしれない。

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