男子フルーレ団体のキャプテン松山恭助(JTB所属) photo by Gunki Hiroshiフェンシング・松山恭助 インタビュー前編 2016年リオデジャネイロ五輪に、フェンシングの太田雄貴の練習パートナーとして帯同した松山恭助。同年1…
男子フルーレ団体のキャプテン松山恭助(JTB所属)
photo by Gunki Hiroshi
フェンシング・松山恭助 インタビュー前編
2016年リオデジャネイロ五輪に、フェンシングの太田雄貴の練習パートナーとして帯同した松山恭助。同年12月の全日本選手権個人では、19歳で初優勝。その後は若返った新チームのリーダーとして男子フルーレを牽引し続けた。
そんな彼の2度目の五輪だったパリ。第6シードで臨んだ個人戦はベスト16で敗退。「今回はメダルの色より、複数の獲得を一番の目標にしていたので、思うようにいかず悔しさがあった」と振り返る。
だが、世界ランキング1位で臨んだ団体戦は強い勝ち方を見せた。「ランキング1位という余計なプレッシャーはなかったが、パリは金メダル獲得の最大のチャンスだと思っていたので、そのプレッシャーは少なからずあった。でも結果的には本当に盤石な感じで......。ミラクルではなく、ちゃんと実力を示した勝利だったので安堵した」と話す。
そんな彼らの世界一への歩みは、団体4位に終わった21年東京五輪から始まっていた。
【チャレンジャーだった東京五輪】
――17年の世界選手権個人で西藤俊哉選手が2位、敷根崇裕選手が3位になり、その後に団体もワールドカップで表彰台に上がるようになりました。そんななかで東京五輪はアジア枠を獲れずに開催国枠での出場で4位。この結果をどう振り返りますか。
日本開催だから出られたという、少しラッキーな部分が大きかったなと思っているし、実力を考えても本当の意味でメダル争いができる力はなかったです。初めての五輪だったから、とにかく持っているものをがむしゃらにぶつけることができればいいと思っていました。
もちろん戦う時はメダルを目標にしていましたが、パリとは違って本当にチャレンジャーだったので、そういう意味でメダルへのプレッシャーをあまり感じないままやれました。
ただ、東京大会はちょっと若かったなというか、自分の年齢(24歳)もそうでしたし、周りの選手も全員が初めての五輪だったので、チームの統制も取れているようで取れていないというか、あたふたしていたところがありました。
――東京五輪の団体は、3位決定戦で当時世界ランキング1位のアメリカに敗れました。男子エペ団体の金メダル獲得を見て刺激もあったのではないですか。
彼らが成し遂げたのを見て、うらやましさと悔しさがありましたが、自分たちは地に足をつけて1戦ずつ戦わなくてはいけないというマインドでやりました。惜しかったとは思いますが、あの時の実力から考えたらあれが限界だったかなと。東京五輪前は、チームとしても個人としても、本当の意味でのメダル争いをできていなかったので、やっぱりチャレンジャーでした。
ただ、無観客ではあったけど五輪を経験したことは、その後の自分の3年間においてはすごく大きかった。そこに出たからこそのリアルな五輪の空気感などを、悔しさも含めて感じました。それを糧に次の3年間を過ごせたので、確実に大きな経験にはなりました。
東京五輪、男子フルーレ団体の3位決定戦でアメリカに敗れて4位に。左が松山
photo by JMPA
――通常なら4年ですが、パリまで3年しかなかったというのもよかったですか。
自分たちにとってはよかったと思います。次は必ずリベンジするっていう気持ちが切れず、エネルギー不足にはならなかった。4年後となると、その気持ちを持って戦うには少し遠すぎる。これからロサンゼルス五輪を目指していくことになりますが、あまりにも遠くて大きな目標なので、まずは1シーズンずつできることをしっかりやっていくというのが一番の近道になる。その意味で東京からパリの3年の意識とは違いますね。
【結果が出ない苦悩を経験】
――東京五輪の翌シーズン、22年11月のワールドカップでの初表彰台が初優勝でしたね。
それが自分にとっては大きな転機になりました。それまで本当にうまくいかず、あと少しのところで負けることの連続で......。いろいろ試行錯誤していったなかでの22年シーズン最初の試合でした。いい練習もできていたし、調子もよかった。感覚としても「いけるかもな」というのがありました。今持っている自分の力を最大限発揮するというところにフォーカスして、それをしっかり体現できたという感じでした。
――それまでに、敷根選手だけではなく、若い飯村一輝選手もワールドカップ初表彰台を果たしていました。チームリーダーという意識があった分、苦しさも感じていたのではないですか。
フェンシングが正解だったとしても、結果が出ないと疑問が生まれたり、自信がなくなったりすることがありました。結果を出すまでの試練というか、我慢するのがやっぱりきつかったですね。自分を否定しすぎちゃいけないので、自分のフェンシングのアイデンティティを失わないようにと思っていました。結果が出たことによって、その努力や取り組みが報われた感覚がありました。
――周りの選手が個人で結果を出しているなかで、チームを引っ張らなくてはいけない自分がなかなか結果を出せない間は、ジリジリしっぱなしだったのでしょうか。
そうですね、本当に精神的にもきつかった感覚はありました。でもリオ以降は試合で思うようにいかなくても、後退はせずにジワジワ進めていたかなという感覚もありました。
そのなかで東京五輪にも出て、「必ずパリでリベンジする」という強い気持もずっとありました。それに、純粋にフェンシングが好きだったし、誰にも負けたくない気持ちもあって、それだけで這い上がったというか、コツコツ努力をしてきたっていうか、そういうのが繋がっていますね。
冷静に自己分析する松山
photo by Gunki Hiroshi
【託されたものを現世代に伝達】
――リオ五輪のあとは、太田選手から託された責任感のようなものをずっと感じていたのではないですか。
その時は感じているとは思わなかったけど、今振り返ると、やっぱりキャプテンとしての責任とか、「男子フルーレの後継者」と言われることとかが、自分のなかでどこかプレッシャーになっていました。勝たなくちゃいけないと思ってしまっていたのが、もがいた原因のひとつかなとは思います。
他の選手はどう思っていたかわからないけど、自分は勝たなくてはいけないという気持ちが強すぎて、のびのびとフェンシングができなかったというか、理想とする自分があまりにも大きすぎて、そこに引っ張られすぎていたなという印象です。
――松山選手が個人で初優勝した頃から、団体でもしっかり表彰台に上がるようになりましたね。
僕が初めてワールドカップで優勝した22年から、今年(24年)のワールドカップまでは、団体戦ではずっとベスト4に入り続けています。そのあたりで個人としてもチームとしても手応えを感じ始めて、「いけるかもしれない」というのをジワジワ感じ始めました。22年をきっかけに個人も団体もよくなってきて、23年くらいからは何回も表彰台に上がるようになりました。
――22年のアジア大会を見て、それまでほぼ同世代でやってきたなかに、飯村選手という勢いのある新しい風が入り、それがプラスに作用しているのではと感じましたが。
自分と敷根選手は小さい頃からやっていて、東京五輪も一緒に経験して悔しい思いをしました。ベテランではないけど、ある程度いろんなことを経験した仲で、そこに新しい選手がポンと入ってきて。彼のような思いきりのいい選手は大事なので、そこはすごいプラスでした。
自分が代表チームに入った時は、太田さんが団体戦でも「責任は自分と他の選手で取るから、お前はのびのびやれ」と言ってくれていました。もちろんプレッシャーも緊張もあったけど、失敗しても怒られないし、うまくいけば喜んでくれました。それが印象的だったので自分も(飯村)一希などには「好きなようにやれ」と伝えています。勝っても負けても自分たちの彼への信頼も変わらないし、「あとは自分と敷根選手で何とかする」と彼にはずっと言っていたのでよかったのだと思います。
――そのあたりからチームとしても勢いがついてきたようですね。
間違いなく一人ひとりの実力がついてきましたし、それぞれの個性をしっかりと生かしたチームづくりがうまくできたのかなと思います。それで少し責任も分担されてきて、自分に集中できていきましたし、あまり自分が自分がというふうにもなりすぎず、うまくバランスも取れていきました。そのなかで(自分は)チームがいい方向に向かって行くようにと意識してやってきました。
(つづく) インタビュー後編はこちら>>
【Profile】
松山恭助(まつやま・きょうすけ)
1996年12月19日生まれ、東京都出身。株式会社JTB所属。4歳からフェンシングをやり始め、小学2年のときに全国大会で優勝する。小学5年から世界大会に出場し、高校時代は1年から3年まで男子フルーレ個人戦で3連覇を達成。高校1年時にはU-17世界選手権を制覇した。その後も数々の国際大会で活躍し、東京五輪にも出場。男子フルーレ個人14位、男子フルーレ団体4位の結果を残した。2022年11月のワールドカップ、男子フルーレ個人で金メダルを獲得。パリ五輪では男子フルーレ個人10位、男子フルーレ団体で金メダルに輝いた。