現在、オフシーズンのJリーグ。だが、試合のない時間は、新シーズンへの期待が高まる時期でもある。次々と選手や監督の去就が発表される中、サッカージャーナリスト大住良之は、来季のJ1リーグの「台風の目」として、2024年シーズンを6位で終えた、…
現在、オフシーズンのJリーグ。だが、試合のない時間は、新シーズンへの期待が高まる時期でもある。次々と選手や監督の去就が発表される中、サッカージャーナリスト大住良之は、来季のJ1リーグの「台風の目」として、2024年シーズンを6位で終えた、昇格組の東京ヴェルディを挙げる。京都サンガから期限付き移籍中の2人、山田楓喜の海外挑戦(ポルトガル1部CDナシオナル)と木村勇大の完全移籍などチームの新編成や、知られざる城福浩監督の過去まで、この機会に振り返りたい。
■選手生命をかけた一戦と「社業専念」
悲願のJSL1部昇格。城福浩はこの一戦に選手生命をかけていた。試合は0-0のまま、後半終盤まで進んだ。同じ午後2時キックオフの試合で、田辺は後半6分までに2-0とリード。無得点引き分けに終わったら、田辺に昇格をさらわれる。両チームとも勝負に出ざるをえない。そして後半38分、ついに、この試合唯一の得点が生まれる。日立はMF星野晋吾からパスを受けたFW荻原悟が倒れながら富士通のゴールにボールを送り込んだのだ。この試合で城福は現役引退を決意する。まだ28歳だった。
それから数年間、城福は社業に専念した。プレーは続けたが、日曜日にしかプレーしない東京の社会人クラブチームだった。城福をサッカーに呼び戻したのは、中国代表の名FWで、1988年から富士通でプレーしていた沈祥福だった。1993年、城福は富士通に指導者として残ることになった沈祥福の下でコーチとなり、1996年には監督に就任した。チームはJリーグの下の全国リーグ、JFLでプレーしていた。しかし、その秋、チームはJリーグ入りを目指してプロ化することを決定、初代監督として元三菱重工監督の斉藤和夫を迎えることになり、城福はふたたび社業に戻った。
大きな変化が訪れたのは、半年後の1997年夏、やはりJリーグ入りを目指す東京ガス(現在のFC東京)強化担当の鈴木徳彦に誘われたことだった。城福は翌1988年に富士通を退職してFC東京の設立準備のために働くとともに、Jリーグ監督ができるS級コーチ資格取得の講習会に参加した。37歳で「サッカーのプロ」となったのである。
FC東京では主として育成の仕事を手掛け、また日本サッカー協会から請われてU-17日本代表の監督も務めた。そして2008年、47歳を迎える年にFC東京の監督に就任した。以後、ヴァンフォーレ甲府、再びFC東京、サンフレッチェ広島で指揮を執り、2022年6月に東京ヴェルディの監督に就任した。
■「ヴェルディをまたJ1の舞台に…」
まだコロナ禍の影響が抜けていなかった(スタンドでの声出し応援は禁止だった)2022年6月、堀孝史監督が率いていたヴェルディは「泥沼」に落ち込んでいた。5月から7試合勝利がなく、4分3敗。3試合連続引き分けに終わったグルージャ盛岡とのホームゲームの後、クラブは監督交代を決断、翌6月13日に城福監督の就任を発表した。
5日後には、レノファ山口とのホームゲームがある。15日に初練習をこなした後、記者会見に臨んだ城福監督はこう語った。
「ヴェルディをまたJ1の舞台に連れていきたい」
「目の前の試合で勝ち点3を取ることに集中していくが、『新しいヴェルディ』を構築するスピードを上げる。現在の攻撃力を削らないで、いかに守備力を上げるかという考え方より、さらに攻撃力を上げたい。攻撃力が守備力を凌駕するようなサッカーをしたい。近年の流行であるつなぐサッカーのなかで、リスクを背負い、全員が走って勝点をもぎ取る、そういうイメージはできている」
■合言葉は「前からのプレッシャーと…」
私が「城福ヴェルディ」をスタジアムで見たのは、その1週間後、6月22日の第102回天皇杯3回戦、等々力競技場での川崎フロンターレ戦だった。ヴェルディは、その4日前に行われた城福監督の初戦で山口に3-0で快勝していた。エースの佐藤凌我が2点を取り、山口のシュートをわずか3本に抑えての完勝だった。「前からのプレッシャーと奪ってからの裏への飛び出し」が「合言葉」だった。
そのサッカーを、ヴェルディはJ1王者川崎フロンターレを相手にしても貫いた。前半39分、相手のパスをインターセプトした佐藤がそのままドリブルで決めた1点で、1-0で勝利をつかんだのだ。「腰が引けた試合はしたくなかった。取り組もうとしていることに手応えがつかめてきている」。城福監督はそう語った。