蹴球放浪家・後藤健生には、初めて現地観戦したワールドカップで「忘れられない」思い出がある。今回のテーマは、ワールドカップと独裁者の「不思議な関係」について。■ドイツW杯で掲げられた「半旗」 1974年7月、西ドイツ(当時)では、第10回ワ…

 蹴球放浪家・後藤健生には、初めて現地観戦したワールドカップで「忘れられない」思い出がある。今回のテーマは、ワールドカップと独裁者の「不思議な関係」について。

■ドイツW杯で掲げられた「半旗」

 1974年7月、西ドイツ(当時)では、第10回ワールドカップが開催されていました。僕にとっては、初めて現地まで観戦に行った思い出の大会だったのですが、2次リーグの途中でスタジアムのポールに半旗が掲げられたのを目にしました。

「半旗」というのは英語で「ハーフマスト」。災害があったり、要人が死去したりしたときに、弔意を表すために国旗などを旗竿の先端より下の位置に掲げることです。

 半旗が掲げられたのは、アルゼンチン共和国の大統領フアン・ドミンゴ・ペロンが亡くなったからでした。

 ペロンはアルゼンチンの左派ポピュリスト政治家でした。国内の労働者を組織して、1946年に大統領となりました。第2次世界大戦前のアルゼンチンは牛肉、小麦などの輸出で栄える豊かな国で、首都のブエノスアイレスには大きなビルが建ち並び、「南米のパリ」とも呼ばれていました。

 大統領に就任したペロンは大胆な工業化政策を行ったのですが、これが失敗。アルゼンチンの富は失われていきます。そして、ペロンも権力の座から追われます。

 しかし、その後も大衆の間でのペロン人気は高く、ペロン支持者(ペロニスタ)は現在でも強い影響力を持ち続けています。また、彼の最初の妻のエバは「エビータ」の愛称で国民的人気を誇りました。ミュージカルや映画にもなったので、ご存じの方も多いでしょう。

■「最後の切り札」が帰国して復帰も…

 ペロンは1955年にスペインに亡命。“過去の人”かと思われていましたが、政治的混乱が続くアルゼンチンでは1973年の大統領選挙でペロニスタのエクトール・カンポラが当選。その後も混乱が収まらなかったため、最後の切り札としてペロンが帰国して大統領に復帰したのです。

 しかし、そのわずか1年後の1974年7月1日に心臓発作でペロンは病死しました。78歳でした。そして、副大統領だったペロンの2人目の妻、イサベルが大統領に就任。しかし、イサベルはエビータのような人気もなく、混乱はさらに深まります。

 ワールドカップで半旗が掲げられ、ペロンの死が注目を集めたのはアルゼンチンが4年後の1978年大会の開催国だったからです。

 イサベル大統領が強権的な政治を行い、左翼ゲリラが活動するアルゼンチンで、はたして無事に大会が開催されるのでしょうか……。

■欧州諸国から「反対」の声が上がるも…

 さて、イサベル大統領の下でも経済的、政治的混乱が続いていたアルゼンチンでは、1976年3月に陸軍のホルヘ・ラファエル・ビデラ将軍がクーデターを起こし、軍事独裁政権が発足しました。イサベル大統領はスペインに亡命します。

 軍事政権は左翼やリベラル勢力など反対派を激しく弾圧。数万人の人が行方不明になってしまいます。多くの人がヘリコプターから海に突き落とされて亡くなったと言われています。

 そんな軍事政権が支配するアルゼンチンでのワールドカップ開催に対しては、ヨーロッパ諸国から反対の声が上がり、ボイコットも呼びかけられました。ヨハン・クライフが1978年大会に参加しなかったのは、そのためだとも言われました。

 アルゼンチンでは軍事政権内部にもワールドカップ開催返上論があったのですが、ビデラ将軍はワールドカップを利用することにしました。

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