大谷翔平の活躍は、アメリカにおけるこれまでの日本人、日系人へのイメージを変えるものでもあった photo by Getty Images第2回(全3回):MLBチーム初のアジア系実況アナインタビュー大谷翔平とロサンゼルス・ドジャースの202…


大谷翔平の活躍は、アメリカにおけるこれまでの日本人、日系人へのイメージを変えるものでもあった

 photo by Getty Images

第2回(全3回):MLBチーム初のアジア系実況アナインタビュー

大谷翔平とロサンゼルス・ドジャースの2024年をMLBチーム初のアジア系実況アナとして伝え続けたスティーブン・エツオ・ネルソン(35歳)。

南カリフォルニア生まれの日系4世という背景を持つ彼がMLBチームの実況を務めることは、大谷翔平の活躍とともに、アメリカの日系社会にとっても歴史的に大きな影響を与えている。

第1回:大谷翔平とともにMLB史に名を刻んだ日系4世実況アナ

【第2次大戦中のアメリカにおける日系人】

 2024年のワールドシリーズ開催中、『ロサンゼルスタイムズ』紙が興味深い記事を掲載した。カリフォルニア州のマンザナー強制収容所跡地で、日系人のアマチュア野球選手数十名が集まり、試合を行なったという内容だ。

 マンザナーはカリフォルニア州東部の人里離れた場所に位置し、シエラネバダ山脈の麓に広がっている。

 1941年12月、日本海軍が真珠湾を攻撃したあと、一部のアメリカ人ジャーナリストや政治家は、戦時下の「国家安全保障」を理由に日系アメリカ人を収容すべきと主張した。スパイ行為などの防止を名目に、「日系人は全員、男女を問わず武装警備下に置かれるべきで、危険が去るまで人身保護の権利を考慮する余裕はない」との声が広がった。

 1942年2月、フランクリン・ルーズベルト大統領は大統領令に署名、結果12万人の日系アメリカ人が財産を奪われ、強制収容所に送られた。大多数はアメリカ生まれのアメリカ市民であり、人権を著しく侵害された。戦後、収容されていた当事者たちはその経験について多くを語らなかったという。忘れたかったのか、または恥ずかしいと感じていたのかもしれない。そのため、次の世代も実態を必ずしも知ることはなく、学校でも教えられなかったが、1976年にアメリカ政府はこの措置の誤りを認め、1988年には「市民自由法」が制定され、生存者への補償が行なわれた。

 しかしながら近年、アジア系に対するヘイトクライムが頻発するなど、過去の汚点が忘れ去られがちだ。そんななか、日系アメリカ人のダン・クォン氏らが、ロサンゼルス・ドジャースの大谷翔平の快進撃に合わせて、このイベントを企画した。収容所では、野球をプレーすることは許されており、ある収容所にはなんと30チームも存在していた。ドジャースタジアムから約320キロ離れた場所に、当時の野球場を再現。雑草を刈り取り、コンクリートを流し込み、バックネットを設置し、フェンスを張った。

「野球を通じて、より多くの人々がこの歴史に向き合ってくれることを願っている。(収容所のことは)西海岸以外ではほとんど知られていない。80年前、翔平という名前の人物がワールドシリーズで脚光を浴びることは、あり得なかった。なぜなら日系人は憎まれ、恐れられていたからだ。

 有刺鉄線で囲まれた収容所の中でしかプレーできなかった。しかし、今日では翔平は崇拝され、称賛されている。この進歩は1944年からの大きな変化だが、世界最高の選手が日本人だという事実だけでは、差別が完全に解消されたとは言えない」

 クォン氏は記事のなかで、そう訴えていた。

【1989年生まれのネルソンと1995年生まれの大谷】

 ドジャースの実況アナウンサー、ネルソンの母親であるフローレンスが、長年勤務していた全米日系人博物館では、収容所に関する情報だけでなく、19世紀末から20世紀初頭にかけて日系移民がアメリカ社会で差別的な扱いを受けてきた歴史も詳細に伝えている。特にカリフォルニア州では偏見が強く、移民への襲撃事件が多発したため、1907年に日米紳士協約が結ばれ、日本人の渡航が制限された。1924年の「移民法」では、日本人移民の受け入れがほぼ完全に禁止され、土地所有や経済的権利も大きく制限された。戦後、収容所からは解放されたものの、依然として差別や偏見に直面し、就職や教育で不利な立場に置かれることがあった。

 日系人博物館は1992年に開館し、筆者も開館から間もない頃に訪れた。ネルソンもおそらく何度も訪れているだろう。子供の頃、アイスホッケーが得意だったネルソンにとって、ヒーローのひとりは1993年にNHLのアナハイム・マイティダックスに1巡指名で入団し、2003年にスタンレーカップ決勝へと導いたポール・カリヤである。

 カリヤは日系3世で、祖父母は第二次世界大戦中に収容所に送られ、父親はその収容所内で生まれた。

 1989年生まれのネルソンと1995年生まれの大谷は、21世紀のアメリカ社会で輝きを放っている。かつてネルソンがカリヤをそう見ていたように、彼らの活躍を憧れの眼差しで見る子どもたちが大人になる20年後には、従来のステレオタイプはさらに薄れ、アメリカ社会がその多様性を強みとして、さらに発展していることが期待される。

 2024年、大谷がドジャースに入団し、ネルソンは同じ球団で働く仲間となった。大谷について印象を尋ねると、こう答えた。

「翔平の際立った点は、もちろんアスリートとしての才能ですが、何よりもその謙虚さが別格です。これほどの優れたアスリートが、ここまで謙虚でいられるのは、彼の人間性や育てられ方、両親の影響を物語っている。だから私はいつも周りの人に、今まで見たなかで最も才能ある野球選手だが、性格や人柄もそれに匹敵すると話しています」

第3回(全3回)につづく