なでしこジャパン・インタビュー守屋都弥(INAC神戸レオネッサ)前編パリ五輪で躍動した守屋都弥(中央)。右は浜野まいか、左は田中美南 photo by Hayakusa Noriko 自分のプレーを貫き通す――なでしこジャパンの守屋都弥がパ…

なでしこジャパン・インタビュー
守屋都弥(INAC神戸レオネッサ)前編


パリ五輪で躍動した守屋都弥(中央)。右は浜野まいか、左は田中美南

 photo by Hayakusa Noriko

 自分のプレーを貫き通す――なでしこジャパンの守屋都弥がパリ五輪で見せたプレーからは、ある種の凄みが感じられた。プレーの奥底に秘められた想いが、守屋自身を突き動かしていたとも言える。

 バックアップメンバーからスタメンへ。守屋にとって、サッカー人生最大のターニングポイントとなったであろうパリ五輪での戦いを、あらためて振り返ってもらった――。

――パリ五輪から、はや4カ月が経過しました。同大会での結果を準々決勝敗退ととるか、ベスト8進出ととるか。あらためて今、守屋選手はどう捉えていますか。

守屋都弥(以下、守屋)自分にとっては初めてのオリンピックだったので、出たからには昨今ずっと超えられていないベスト8という壁を超えたかった――それが最後、(気持ちのなかで)残った感じでした。

――パリ五輪のメンバー発表の際は、当初バックアップメンバーという立ち位置でした。

守屋 めちゃくちゃ悔しかったです。しかも、メンバーを見て「なんで? サイドバックいないじゃん!」って思いましたから(苦笑)。3バック(or5バック)と4バックを併用しているなかで、サイドバックの本職の"替え"を作らないのは、なんで? と。

 でも、指揮官にそういう決断をさせた、(チームに)必要な選手に自分がなれなかったんだって......。そこは確かなので、本当に悔しかったです。

――大会前の最後の海外遠征(アメリカ)では、いきなり左サイドバックでも試されました。突然のことにもかかわらず真正面からぶつかっていましたが、正直なところ、五輪メンバーに選出される自信はどのくらいありましたか。

守屋 五分五分でした。5バックだとCBは(メンバーの枠を)多くとらないといけないですし、(チームには)いい選手がいっぱいいるので、監督としてはそれぞれの"ここ"に期待して"ここ"に据える、という考えがあるわけじゃないですか。それで「私は?」と言えば、それまでフルに試合で使われたこともなかったですし、そこまでの戦力として見られていないんじゃないか、という思いもあって......。選ばれるか、選ばれないか、本当に五分五分だと思っていました。

――結果、バックアップメンバーとしてフランス入りしましたが、大会直前にルール変更があって、バックアップメンバーでも出場できる可能性が高まりました。

守屋 周りからも「(試合の出場枠については)どうなるかわからないから」と言われていたんです。でも、自分のなかでは「直前でルールなんて変わるか?」とも思っていて。「(試合に)出られるかも!?」となったときはラッキーでしたけど、自分のなかでは最初から、ルールが変わっても変わらなくても"チームのために戦う"と決めていました。

 そもそもルール変更がなかったとしても、(昨夏の)ワールドカップでも一緒に戦ってきた"なでしこジャパン"は応援したいチームでもあるんで。試合に出られない悔しさはあっても、その一員でいられることは大きかったです。それに、バックアップメンバーはひとりではないので、国内の直前キャップの時には(バックアップの)フィールドメンバー3人(守屋、石川璃音、千葉玲海菜)で喝を入れ合っていました。「チームのために頑張ろう!」って、3人で決めていたので。

――結局ルールが変更されて、守屋選手は初戦のスペイン戦でいきなりピッチに立つことになりました。

守屋(清水)梨紗がケガをしてしまって......。でも、そのときのファーストチョイスは、自分ではなかったんですよね。バックアップメンバーという、立ち位置を痛感しました。そこで、気持ちは一度落ちたんですけど、最後に出場機会がめぐってきたことで、また気持ちが上がって(笑)。もちろん、ピッチに入ったら、そんなことは関係なく、自分の仕事をやりきるだけでした。

――少ない時間でしたけど、あの厳しい展開のなかで一気にクロスまで持っていくプレーを見せました。あれは、守屋選手の意地だな、と思いました。

守屋 ふふふ(笑)。アメリカ遠征で、左サイドで出たときにクロスを上げられなかったんですよ。ワールドカップのスペイン戦で出たときもクロスを上げていなくて......。やっぱり試合に出たからには、(自らの存在の)証を、爪痕を残さないと!って思っていました。これで、オリンピックの出場は最後になるかもしれないですし。

――その後、清水選手はスペイン戦の負傷で離脱。彼女の分まで、とスペシャリストとしては奮い立ったのではないですか。

守屋 そうですね。ただ、自分は(最初)左サイドで出て、(本来の)右サイドじゃないんだっていう思いはありました。(サイドを)やったことがない人を(清水選手の代わりに)据える、というのは......ね。左右どちらかのサイドは本職を置いてもいいんじゃないかって、自分のなかではあって......。そこが自分ではなかった。

 それでも、左サイドはこの代表で自分が任された場所。そこも自分のポジションだと思って臨んでいました。

――オリンピックの大舞台で、常に"なにくそ精神"があったのですね。

守屋「もっと右で、サイドバックで出させてくれ!」っていうね(笑)。どこかでスペシャリストとして爪痕を残したい。ベスト8の壁を超えるために、試合に出ている責任を果たしたかったです。

――大舞台でワンチャンつかんで、メラメラした想いを前面に出して立ち向かっているのかと思っていましたが、そんな葛藤も抱えていたんですね。

守屋 もちろん、楽しさもありました。ほぼ海外のクラブでプレーしている選手たちで、彼女たちと合わせることって、試合に出ないとできないんです。その合わせる感覚を(試合のなかで)だんだんつかみながらやるのが楽しくて。『(長谷川)唯だったらここにボールが出てくるよね』『(高橋)はなだったらこれくらいのところに(パスを)出せるよね』とか、みんなが自分を生かしてくれるのが楽しくて。そういう気持ちのほうが大きいからこそ、自分の持ち味が出せたんじゃないかな。

――その楽しさが最も色濃く出たシーン、というのはありますか。

守屋(グループリーグ第3戦の)ナイジェリア戦の2点目! はなから(田中)美南さんにタテパスが入って、美南さんがダイレクトで自分の前、(相手DFの)裏のスペースに出して、自分も(ゴール前にいる)『(植木)理子ならここに入ってきてくれるよね』っていうところにダイレクトでクロスを入れて......結局、理子のシュートは決まらなかったんですけど、(クロスバーに弾かれた)こぼれ球を美南さんが決める、っていう。あの流れは楽しかったぁ~。

――反対に、忘れられない悔しいシーンなどはありますか。

守屋 それもナイジェリア戦なんですけど、最初に(相手と対峙したときに)一発ではがされたんですよ。ワンタッチで入れ替わられて。あのときは、世界の速さに「やられた」って......。自分のなかで(周囲の対応を見ながら)相手との間合いを探っていて、自分が決めた間合いでやられてしまったので、あれは悔しかったですね。それでも、(相手の間合いは)「これじゃない」って、その後は修正できたので、よかったこととも言えるんですけど。

――個人的に世界との差を感じた部分はありますか。

守屋 決定力です。自分もアメリカ戦でシュートを打ちましたが、アメリカの選手ならあれも決めてくると思うんです。実際、アメリカは最後に日本の左サイドのあんな深いところから決めてきた。それも、疲れている延長戦で決めてくるんですから。しかも、ヤマさん(山下杏也加)がボールを触っているのに、それでも決められる軌道で。そこに、決定力の違いを感じました。

 自分たちは疲れていく一方なのに、相手はどんどん強くなる、というのは恐怖ですよ。でも(日本の)みんなもしっかり耐えていて、隙を見てシュートまで持っていかないといけない、ということは誰もが考えていた。そこを一歩リードしていたのがアメリカで。やっぱり、そこはすごいなって思いました。

――オリンピック期間中は、チーム全員で映像を見て、とことん考えて、話し合って......と、すごく濃い時間だったと思います。守屋選手はそのことを一番感じていたのではないかと思うのですが。

守屋 今までで一番集中力があって、目の前の相手とどう戦うか、考え抜いていました。相手の細かい動きまで見定めて、集中してやっていました。連戦で体はキツかったんですけど、頭は疲れてはいけないと。でも、それが全然苦じゃなかった。だって、それをやり続ければ上に行けるって、誰もが思っていましたから。これがやりがいっていうのか、(自分にとっては)初めてなくらい「サッカー、おもろ!」って感じました。

――守屋選手にとって、オリンピックはどんな大会でしたか。

守屋「もっと成長できる!」と思える大会でした。この代表に選ばれる前は、(残りのサッカー人生は)韓国に移籍して楽しくサッカーをして、それで競技人生を終えようかな、とか思っていたんです。あとは、タイミングだけ、と。そんなときに代表に呼ばれて、その先にオリンピックという目標ができた。そして、(オリンピックでは)自分の成長の幅を知るというか、まだ上を見られるんだって、再確認させてもらいました。

――韓国への移籍などを思い描いているときというのは、WEリーグでもスタミナ抜群のサイドバックとして名が売れている時期ですよね。なぜ、そんな選択肢を考えていたのでしょうか。

守屋 自分のなかで、向上心がなくなっていたんです。「もうこれでいいや」って。自分の限界はここまでなんじゃないかなって。でも、代表として戦って、もっと上に行きたいという欲が出てきた。(上のレベルでも)自分が通用する部分も見つけられて、ここを磨けばもっと成長できるというのもあって。(代表で戦っていて)その道筋が見えた。そこから、変わりました。

――ということは、なでしこジャパンの位置づけというのも、守屋選手のなかで変わりましたか。

守屋 変わりました! それまでもメディアの前では「なでしこ、目指します!」とは言っていましたけど、実際のところ、自分はそこに近くないなって思っていたんですよ。でもそこから、代表にずっと呼ばれるようになって「ここに居続けたい」って思うようになって。きっとこれが、これまでの私にはなかった"欲"だと思います。

(つづく)



photo by Hayakusa Noriko

守屋都弥(もりや・みやび)
1996年8月22日生まれ。奈良県出身。中学校入学時にJFAアカデミー福島に入校。高校を含めて6年間在籍し、卒業後にINAC神戸レオネッサ入り。2016年U-20女子W杯に出場。チームでも徐々に頭角を現わして2022年、ウイングバックに転向して一躍リーグを代表する選手へ。なでしこジャパンにも選出され、2023年女子W杯、2024年パリ五輪に出場した。