韓国人Jリーガーインタビュー キム・ミンテ(湘南ベルマーレ) 後編湘南ベルマーレのキム・ミンテはベガルタ仙台でプロになり、今季Jリーグ10年目をプレーした。ここまで5クラブに所属したが、それぞれどんな思いで戦い、移籍してきたのか。その内容は…
韓国人Jリーガーインタビュー
キム・ミンテ(湘南ベルマーレ) 後編
湘南ベルマーレのキム・ミンテはベガルタ仙台でプロになり、今季Jリーグ10年目をプレーした。ここまで5クラブに所属したが、それぞれどんな思いで戦い、移籍してきたのか。その内容はJリーグの歴史の重みを感じさせるものだった。
前編「キム・ミンテが語る来日当初の日本語猛勉強」>>
湘南ベルマーレのキム・ミンテ。Jリーグでプロになり今季10シーズン目をプレーした
photo by Kishiku Torao
【韓国にいないタイプになりたかった】
2017年、キム・ミンテはベガルタ仙台から北海道コンサドーレ札幌に移った。
ここでミハイロ・ペドロビッチ監督と出会い、薫陶を受ける。
「当時は(現在のセンターバック/CBとは違い)ボランチだったんですが、遠藤ヤット(保仁)さんや中村憲剛さんのようにゲームをコントロールするパスを出せる選手になりたかったんですよ。僕のサイズ(187センチ)でそれができれば最強じゃないかと。韓国にいないタイプになりたかったんです。
やっぱり日本は韓国よりもいいボランチが多い印象ですね。韓国は『戦えて、サイドチェンジができる』というタイプが多い。サイズがあって、しっかりパスを出せる存在はキ・ソンヨン選手(現・FCソウル)くらいしかいかなったので」
札幌での時間は、自らの成長過程での目的にぴったりはまる時間だった。韓国人プレーヤーたるキム・ミンテははっきりと「こうなりたい」というイメージを、Jリーグのなかで追求するようになっていたのだ。
それゆえ、北国でトレーニングと試合を繰り返す時間は心地よいものだった。
「ミシャのサッカーでは、前にボールを進めようとすることを求められます。たとえミスしても『ブラボー』って言ってもらえるんです。練習からとにかくそうで。それを言ってもらいたくて、どんどんポジティブな気持ちでやっていく」
チームメイトに同じ韓国人のGKク・ソンユン(現・京都サンガF.C.)がいた。また仙台時代に出会った日本女性と結婚したこともあり、より日本語が滑らかになっていった。
「若くて、同世代の選手たちが多かった。当時のメンバーとは、心が通じ合っていたと思います。荒野拓馬、深井一希、マエヒロ(前寛之)......」
【チャレンジのための移籍決断】
しかし、キム・ミンテは3シーズン半でこの札幌での時間に終止符を打つことになる。
CBに主戦場を移し、2シーズン目となった2021年シーズン前半、2度退場処分になり3試合も出場停止となった。「ミシャも僕を使いづらくなったと思います」。
ベンチ外の状況が多くなった。チーム内での序列が下がっていくのを感じた。監督に話を聞きに言ったが「今出ている選手のほうがいい」という答えが帰ってきた。
ミシャのことは恩人だと思うほどに感謝している。しかし試合出場のチャンスは減りそうな気配だった。同時に「守備の細かいことをもう少し学びたい」という思いも芽生え始めていた。「ブラボー」と声をかけられる心地よさはあったが、細かい守備に関しては「ボールを握っていれば、あまり考えなくてもよい」といった方針だった。
そんな折に名古屋グランパスからのオファーが届いた。CBの丸山祐市が負傷して、そのポジションにキム・ミンテが求められた。
ビッグクラブへの移籍だった。一方でこんな思いがあった。
「監督がイタリア人(マッシモ・フィッカデンティ)だったでしょう? だからもっと守備の細かいところを教われるんじゃないかって」
2021年8月、コンサドーレのチームメイトとの別れの時が来た。
「僕、泣きながら挨拶しました。チームメイトも泣いていたと思います。ミンテが外国人かどうかじゃなくて、ミンテという人間が大切なんだ、と言ってくれたチームメイトもいて......。一緒に戦って、一緒に成長した。そんなつながりを感じていたんですよ」
所属チームの切り替わりは早かった。この月の11日、名古屋に期限付き移籍し、すぐにデビュー戦でゴールを挙げた。10月30日にはルヴァンカップ優勝に貢献。すぐに名古屋という街も好きになった。
しかしシーズン後、キム・ミンテはまた新たな決断をする。守備を教わりたい、と考えていたフィッカデンディの退任も決まり、心が動いた。
気になっていたクラブ、鹿島アントラーズからのオファーが届いたのだ。
「どこかで、内田(篤人)さんのインタビューを目にしたんです。鹿島の強さの秘訣ってなんだろうって。シーズン序盤には連敗を喫して、低い順位にいたのに結局は4位くらいに入ってくる。そういう年が2年くらいあったな、という記憶があって」
札幌時代にも鹿島と試合をして、結構勝った記憶がある。でも最終順位は鹿島が上にいる。
それはいったい何なのか。知りたい思いもあり、鹿島からのオファーを受け入れた。名古屋で優勝を経験し、いいチームメイトに恵まれていたが、あえて決断したのだった。
「わざわざ自分からジャングルに入っていくような話です。自分である程度安定した道を作ってきたのに、またチャレンジしようと」
【ケガで思うようにいかなかった鹿島時代】
しかし、2022年シーズンに始まるこの決断は数字の上では"失敗"に終わる。
「加入後すぐに、またケガです。それでも最初の頃には試合に出ていたんですけど、パフォーマンスが上がらなくて。スタートラインにも立てなかった印象です」
それでも粘ってチャレンジを続けた。ある"希望"があったからだ。
「コロナの状況にあって、シーズン途中から合流した監督が外国人(レネ・ヴァイラー)だったからです。外国人監督はそこまでの実績は関係なく、その時点での選手をフラットに見ていく傾向があるので」
実際に、3月中旬のレネ・ヴァイラー合流後は状況が多少は好転していった。試合に起用され始める。しかし、それでもまだ状況は思うようにはいかない。
「パフォーマンスが上がらず、オウンゴール(7月6日第20節セレッソ大阪戦)や退場(7月16日第22節ヴィッセル神戸戦)を繰り返してしまって......」
翌2023年シーズンは、前年8月からレネ・ヴァイラーに替わり指揮を執っていた岩政大樹が最初から監督を務めるシーズンになった。しかし、キム・ミンテをまたしても負傷が襲う。
「チーム内での競争が一番活発な時期に出遅れてしまった。それでもダイキさんは試合に使ってくれていましたし、試合に勝つこともあった。ただ、その年に加わった、もともと鹿島にいた同じCBの植田直通や昌子源らは試合でどんどん力を発揮していく状況でした」
この頃に悟った。
「多分ですけど、僕の感じたところでは、自分はダイキさんの理想や鹿島の理想に合わないタイプの選手だったな、と感じたんです」
そう考えると、気持ちが吹っきれた。自分ができることはやりきった。その結果として再び移籍を決断した。
「最後にダイキさんに『おまえならやれると思う』と言ってもらえて、スッキリしました。頑張っている姿を見ていてくれてたんだなと。僕はやっぱり、ボランチがCBをやっていた感じが残っていたと思うんです。そこをCBだったダイキ監督に指導してもらえた。守備のやり方、どしっとした存在感を出す方法。その点にはとても感謝しています」
【ベルマーレになかったものをプラスしていく役割】
決断を繰り返し、時に失敗もし、キム・ミンテは2023年シーズンの夏に期限付き移籍で湘南ベルマーレにたどり着いた。2024年シーズンからは完全移籍に移行している。
「ボールを握りたい、というサトシさん(山口智監督)のサッカーに惹かれました。そこに自分の持っているスピードという特長も生かせるのではないか。理想のサッカーと自分に合うサッカーが少し別だというのも、鹿島時代に知ったことでしたし。そして何より、ベルマーレになかったものをプラスしていく役割も期待されてのオファーだったと思います」
実際に、J1残留争いに身を置いていた2023年シーズンに、ベルマーレの練習に参加して感じるところはあった。
「練習からみんなを"燃やしたい"と思いました。燃える状況に置きたい。アントラーズと違ってベルマーレは『練習はあくまで練習』という雰囲気で、かつ真面目すぎました。だから声をかけ合って、厳しいところは厳しくいこうと。アントラーズだと、練習から勝負にこだわっているんです。5対5のゲームで負けたらペットボトルを蹴っ飛ばすくらいに悔しがる。一方、勝ったチームはスマホで記念撮影してるくらいですから」
2024年シーズンは、山口智監督からキャプテンをまかされた。最初はあまり気の進むものではなかったという。
「外国人だし、スポンサー企業とお話する際にもうまく話せないことがあると思うけど、大丈夫かなと思いました。でも、さっきの"燃える"話じゃないですけど、サトシさんは、そういうタイプがベルマーレには少ないと考えたんだと思います」
山口監督は、ユース時代にボランチでも少しプレーしていたことを後に聞いた。ますます共感し、その理想のサッカーをピッチで具現化したいと思う。それも、ここまでのJリーグでの経験も生かしながらだ。
「最初はそのまま表現したいと思っていたんです。でも、やっぱり自分がやりたい部分も出てきた。ミシャさんに教わった点の影響もあると思います。だけど、今季後半はチームのことを考え始められるようになってきたと思います。自分の主張を曲げてでも、たとえ自分が持ち味を発揮できなくとも、チームのためにサトシさんのやりたいことをやろうと。テンポを速くして、ボールを速く渡す、といったところですね」
【日本人と同じように日本語を扱う外国人】
そんな役割を果たせるのも、10年間の日々での紆余曲折を経て習得した日本語があってこのとだ。日本人プレーヤーと同じように日本語を扱う外国人。おそらくはこの点は、Jリーグの歴史のなかで、韓国人プレーヤーたちが長けている点のひとつだ。言語的特徴が近いため、日本語をマスターしやすい。
「基本的に本気なんです」とキム・ミンテは語る
photo by Kishiku Torao
最後にキム・ミンテに聞いてみた。日本語の実力は本当にすごいが、あなたは外国籍選手です。日本人とは違う特徴が求められる。そのなかで「韓国人ならでは」という点はありますか、と。
「韓国人だからかどうかはわからないんですが......基本的に本気なんですよね。ちょっと気持ち悪いかもしれないけど、自分の人生を本当に映画の主人公だと思って生きているんですよ。"俺様"みたいな感じではないですけど、俺が中心で。だから『この1試合がもし映画に出るならどうなるだろう』って考えたりもします。必死だ、熱いという要素はそういった考え方から出てきていますね」
筆者は25年来、幾多のコリアンJリーガーに話を聞いてきたが、自然とインタビュー中の会話が韓国語から日本語に切り替わったのは彼が初めてだった。
そんなキム・ミンテの話を直接聞いて、日本の立場からこんなことを思った。
Jリーグができて32年。その歴史の重みがここにでもあるのではないか。幾多の国のプレーヤーがやってきて、自分の確固たる考えがあれば、自分なりのストーリーを描ける場になっている。Jリーグがそんな受け皿になっているのは、すごく誇らしいことじゃないか、と。
(おわり)
キム・ミンテ
金眠泰/1993年11月26日生まれ。韓国仁川広域市出身。MF/DF。光云大学から2015年にベガルタ仙台に加入。2017年から北海道コンサドーレ札幌、2021年途中から名古屋グランパス、2022年から鹿島アントラーズ、2023年途中から湘南ベルマーレでプレー。今季J1通算200試合出場を果たした。U-23韓国代表としてリオ五輪を経験している。