■斎藤佑樹が語る 野球はまだまだマイナースポーツだというインドネシアから、「野球がやりたい。甲子園に出たい」という思いで日本に来た選手がいます。その留学生に会いに、柳川(福岡)を訪ねました。 ウン・ゲルハルド投手(3年)。日本語がとても上手…
■斎藤佑樹が語る
野球はまだまだマイナースポーツだというインドネシアから、「野球がやりたい。甲子園に出たい」という思いで日本に来た選手がいます。その留学生に会いに、柳川(福岡)を訪ねました。
ウン・ゲルハルド投手(3年)。日本語がとても上手だったので、びっくりしました。野球人気は高くないインドネシアで小学校1年から野球を始めました。現地では珍しく小学校に「野球部」があり、母親がユニホームをみて「かっこいい」と思い、ゲルハルド選手に「やってみたら」と勧めたのがきっかけだそうです。
そこで日本人コーチに出会い、日本の高校野球の魅力や甲子園の存在を知りました。「中学生になると『日本に行きたい。日本で高校野球がやりたい』と思いました」と振り返ります。インターネットなどで調べてみると、インドネシアから留学生を受け入れている日本の高校は少ない中、柳川を見つけました。「野球も強いし、行ってみたいと思った」
柳川には国際科があり、10の国と地域から約80人の留学生を受け入れ、タイに中学校を開校するなど、海外に目を向けています。また、野球部は2005年夏以降、甲子園から遠ざかっていますが、春夏合わせて16回の甲子園出場(柳川商時代を含む)を誇る強豪です。
卒業生にはプロ野球・阪神タイガースで活躍した真弓明信さん(71)らがいます。
入学後、野球部に入部しましたが、やはり、壁にぶつかります。言葉の違いはもちろん、インドネシアにはない先輩・後輩の上下関係にも戸惑いました。特に上下関係は「恐ろしかった」と笑います。また、野球部の厳しい練習についていくのも苦労しました。当初はランニングなどでも、吐いてしまうこともあったそうです。
それでも、母国のコーチに教えてもらった「弱気は最大の敵」という言葉を胸に「気持ちだけは負けないようにって、それだけで食らいついていった。限界を超えるためにやり続けて、どんどん体力がついていった」と話します。
しかし、「このままやっていけるだろうか」という不安はぬぐえず、1年の冬にインドネシアに帰省した際、両親に相談します。両親は「ここまで頑張ったし、やめても悪いとは思わない」と言ってくれたそうです。でも、つらい練習に食らいついた日々が、ゲルハルド選手に「親にお金を出してもらって日本に行って、最後までやり切らないともったいない」と思わせていました。
同学年の甲斐田朋毅・前主将は「練習で何度吐いても弱音ははかなかった。がむしゃらでまじめ」と話します。「粘り強く、本当に頑張ったから、みんなが彼に声をかけ出した」と御所豊治監督(63)。「一生懸命さを前に出し、とにかくがむしゃらにやる」とも。
一方で「野球をやりたい」と思い、柳川に来たゲルハルド選手は、グラウンドに掲げられた「すべては甲子園にために」と書かれた横断幕を見て「本気で甲子園を目指そう」と気持ちを新たに。彼らの代では「チーム一丸」をスローガンに臨みました。練習の成果もあり、投手としてベンチ入りまであと一歩だった最後の夏。チームは福岡大会5回戦で惜しくも敗れました。
野球に打ち込んだ高校生活を「一生懸命、毎日を過ごし良い経験になった」と振り返ります。今の夢は、大学に行き、通訳として野球界で働くこと。「インドネシア野球の力になれたらいいな、と思います」と話してくれました。
彼の思いを受け継ぐように、1年生に2人のインドネシア留学生が入部しました。ゲルハルド選手も「毎日毎日、時間を無駄にせずに甲子園を目指して頑張って欲しい」とエールを送ります。
彼らがインドネシアに野球を持ち帰り、アジア全体に野球の輪が広がってくれれば。いろんな国と、野球を通じてつながっていく可能性を感じました。