ヤクルト髙津臣吾監督インタビュー(前編) ヤクルトの秋季キャンプ(愛媛・松山市)期間中、髙津臣吾監督はメインの坊ちゃんスタジアムをはじめ、サブのマドンナスタジアム、室内練習場にブルペンと、広大な敷地を監督専用車(自転車)で精力的に走り回った…
ヤクルト髙津臣吾監督インタビュー(前編)
ヤクルトの秋季キャンプ(愛媛・松山市)期間中、髙津臣吾監督はメインの坊ちゃんスタジアムをはじめ、サブのマドンナスタジアム、室内練習場にブルペンと、広大な敷地を監督専用車(自転車)で精力的に走り回った。
「今回、コーチに練習のすべてをまかせていますが、要求はいろいろさせてもらいました。だからメインだけ見て、サブ、室内練習場、ブルペンに足を運ばないのはすごく無責任だと思っています。時には『こうしたほうがいいんじゃないか』など、意見を述べられるように見ておきたいというのもあります。もちろんウエイトルームにも行きましたよ」
髙津監督は就任1年目(2020年)こそ最下位に沈むも、翌21年はチームをリーグ優勝、日本一へと導き、22年もリーグ連覇。だが昨年、今年は2年連続5位と低迷。続投が決まった指揮官に、これまでの反省や課題、そして来シーズンの目指す戦いについて聞いた。
2022年の連覇以降、2年連続5位と苦しい戦いが続いているヤクルト髙津臣吾監督
photo by Koike Yoshihiro
【なぜケガ人が出るのか追究しないといけない】
── 2年前、日本シリーズでオリックスに敗れてから、まもなく秋季キャンプで松山入り。初日の「まだ悔しいね」という言葉が印象的でした。去年、今年も「悔しいですね」という言葉をよく耳にしました。
髙津 あの時は、あと一歩というところで日本一になるチャンスを逃した。単純に勝負に負けた悔しさ、力不足だったことを認めなきゃいけない悔しさでした。去年と今年は、悔しいのはもちろんですが、情けないという気持ちが強いですね。チームを継続して勝たせることや、立て直すことができなかった。同じ悔しいといっても、2年前と今年とでは、そこの意味はちょっと違いますね。
── 今は、連覇時に思い描いていたイメージからは遠くなってしまった感じでしょうか。
髙津 自分が監督をあと何年するかはわかりませんでしたが、このままだったら大変なことになるとずっと思っていました。主力選手たちが年齢を重ねていった時にどうなるんだろう、外国人選手もこのあとどう変わっていくのだろうと。勝っているから、そこが浮き彫りにならなかっただけなので......。新しい人をどんどん入れて、チームをぐるぐる回したかったのですが、それができなかったですね。今いる一軍メンバーの刺激になる選手が出てこなかったのは大きな反省というか、それができなかったことは情けないと思っています。
── 今年も故障者に泣かされたシーズンとなりました。
髙津 2月のキャンプ、オープン戦で、イメージしていたのとはガラッと変わってしまいました。開幕前から先発ローテーションに苦しみ、その後も主力が抜けてしまい、やりくりが難しかったです。試合中のアクシデントは仕方ない部分があるでしょうけど、やっぱり強い体をつくらないといけないのでしょうね。しんどい時に耐えられる体というか、シーズン143試合を戦う、オープン戦も含めるともっと増えていきますが、それを乗り越えていく体力。そして、歯を食いしばり立ち向かっていく精神力もまだまだ足りないのかなと。
── シーズン中、「防げたケガもあったかもしれない」という言葉が記憶に残っています。
髙津 死球でも、もしかしたら避けられたんじゃないか。自打球にしてもなんとかできたんじゃないかと思うこともあります。「死球だから仕方ない」では終わらせず、そうなった理由を追究することも大事なのかなと。ケガを繰り返すものも、復帰に時間がかかることも追究していかないといけない。チームにとってケガ人が出ることは、大きなマイナス要素ですので。
その代わりに新しい選手が出てきたかというと、そこが他球団との差が広がっていく結果になってしまった。この2年、シーズンに入った時はこうだったけど、シーズン中にこう落ちていきますという状態が続いているので、来年は逆に上がっていくように、防げるケガも含めて考えていきたいですね。
【試行錯誤を続けた打順】
── 故障者や状態が上向かない選手が多く、打順は目まぐるしく変わりました。村上宗隆選手を2番、山田哲人選手を6番や7番で起用する試合もありました。
髙津 簡単な決断ではなかったですね。自分の思い描いたものを崩すわけですから。正解かどうかわからないけど、次に進むために必要だと決断しました。僕の理想は、ずっと哲人とムネ(村上)の並びで、その前に1番の塩見(泰隆)がいて、ノリ(青木宣親)が2番にいる。そこを崩して、哲人をムネの後ろで打たすことも、ムネを4番より前の打順で打たすことも、非常に大きな決断でしたね。
── 打線自体は、チーム打率リーグ3位、チーム得点同2位、チーム本塁打同1位と活発でした。ただ、「あと一本が出なかったですね」という高津監督の試合後のコメントをよく耳にしました。
髙津 ランナーは出ます、進塁もさせます、ランナーをためることもできます......でも打って勝つとか、つないで勝つとか、その部分でベイスターズやカープのような集中打、ビッグイニングをつくりだすというというところを、スワローズはなかなかできなかった。どこかで打線が切れて、つながりを欠いてしまったのが理由だと思うので、今年はそういうふうなオーダーになってしまったのかなと。それは考えなければいけない部分ですね。
── シーズン終盤は、1番・長岡秀樹選手、2番・西川遥輝選手、3番・ドミンゴ・サンタナ選手、4番・村上宗隆選手、5番・ホセ・オスナ選手と、ほぼ固定されていました。現状のメンバーを考えると、これが理想でしょうか。
髙津 僕としてはちょっと違うんですよね。やっぱり哲人は、もっとプレッシャーのかかる場面で打たせるべきだと思っています。今は6、7番を打たせるのがいいのでしょうけど、サンタナやオスナの状態を見ながらも、理想は哲人に3番を打ってほしいと思っています。
【青木宣親のいないシーズンをどう戦うか】
── 打順を試行錯誤するなかで「おまえはずっと8番だ」と叱咤激励していた長岡選手が、シーズン最多安打のタイトルを獲得するなど、自らの力で打順をつかみとりました。
髙津 思い描いたよりもいい曲線で成長しました。レギュラーのなかで一番若いわけなので、この後、青木になれるのか、中村(悠平)になれるのか、哲人になれるのか。チームを引っ張っていける資質があるかどうかは、まだ未知のところです。
── 長岡選手は松山キャンプにも招集。ほかの若い選手に一軍レギュラーの練習や姿勢を見せるという狙いもあったのでしょうか。
髙津 いえ、年齢で決めました(笑)。そこは実績とかではなく、まだ若いんだからもっと鍛えようと。ヘッド(嶋基宏)も打撃コーチ(大松尚逸)もそう言っていたので、そうだなと。まだ23歳なので、丸々1年やったくらいじゃへこたれないでしょう。まぁ、松山キャンプでへこたれましたけど(笑)。でも、今のうちにしっかり練習を積んで、20代後半から30歳になった時のために、いいキャンプをさせたいと思ってのことでした。
── 今年は青木選手が引退。あらためてチームにとってどのような存在でしたか。
髙津 ノリの背中を見て、そこを追いかけない手はないですよね。非常に大きな教科書がそこにあったわけですから。マネ似してもできない部分はたくさんあるけど、追いかける。教科書のページをめくることは、ほかの球団の選手にはできないことです。チームにものすごく大きなものを残してくれたのがノリでした。
来年は「ノリみたいに」とか、「青木の背中を追え」とは絶対に言わないですけど、どこか頭の片隅にそれを描いてプレーしてほしいと思っています。技術はもちろんのこと、今の野球界に薄れている"精神力"だったり、"根性"だったり、とにかく忍耐力がずば抜けていました。そういうのが身についていかないと一流にはなれないし、そういう選手がチームを引っ張り、いい成績をおさめていくと思っているので、そこはぜひ見習ってほしいところです」
つづく>>
髙津臣吾(たかつ・しんご)/1968年11月25日、広島県生まれ。広島工業高から亜細亜大を経て、1990年ドラフト3位でヤクルトに入団。魔球シンカーを武器に、ヤクルト黄金時代のクローザーとして活躍。2003年には通算260セーブ、289セーブポイントの日本記録(当時)を達成。04年、シカゴ・ホワイトソックスへ移籍し、メジャーでもクローザーとして活躍。その後、韓国、台湾でもプレー。11年には独立リーグの新潟アルビレックスBCと契約。12年には選手兼任監督として、チームを日本一へと導いた。同年、現役を引退。14年に古巣であるヤクルトの一軍投手コーチに就任し、17年から二軍監督を務めた。その後、20年に一軍監督に就任し、21年、22年とセ・リーグ連覇。21年には日本一に輝いた