ヤクルト髙津臣吾監督インタビュー(後編)前編:ヤクルトはなぜ2年連続5位と低迷したのか?はこちら>> ヤクルトは2021、22年のリーグ2連覇から一転、去年、今年と5位に終わった。なかでも今シーズンは投手陣が苦しみ、チーム防御率はリーグワー…

ヤクルト髙津臣吾監督インタビュー(後編)

前編:ヤクルトはなぜ2年連続5位と低迷したのか?はこちら>>

 ヤクルトは2021、22年のリーグ2連覇から一転、去年、今年と5位に終わった。なかでも今シーズンは投手陣が苦しみ、チーム防御率はリーグワーストの3.64。来季の巻き返しに向けて投手陣の再建は最重要課題で、髙津臣吾監督は「うちの投手陣はお世辞にもレベルが高いとは言えないですね」と、期待をしているからこその厳しい言葉が続いた。


来シーズンオフのメジャー挑戦を表明したヤクルト・村上宗隆

 photo by Koike Yoshihiro

【新しい選手が出てこなかった】

── 今年も投手陣、特に先発に苦しんだ印象があります。

髙津 新しい人が出てこなかったですね。先発が手薄、弱点なのは明らかでそこを強くしていかなければとは思っていますが、しっかりした柱というものがなかったですね。今年もリリーフに負担のかかるシーズンだったし、ゲームバランスをもっと先発寄りにしていくのはここ数年の課題です。

── 先発投手を中10日にするなど、一人ひとりの登板間隔を空け、ローテーション投手を増やす試みもありました。

髙津 本当は少ない人数で、勝率のいい投手で回していくほうが勝つ確率は高いと思います。10人もいると、言葉はよくないですけど、一軍半の投手も投げることになり、どうしてもリリーフに負担がかかってきます。できれば少ない人数、少ない登板間隔で回すのが理想ですけど......繰り返しますが、新しい選手が出てこなかったですね。

── そうしたなかで、2年目の吉村貢司郎投手が9勝8敗、高橋奎二投手も8勝9敗でした。来年に期待を抱かせる内容の投球だったと思います。

髙津 シーズン終盤、吉村と奎二は少し安定して、形になりつつあるかなと感じました。まだまだ他球団のエース級とは差がありますが、大枠は見えてきました。将来的にどうなるかはわからないですけど、2025年が成長するシーズンになってほしいですね。

── 奥川恭伸投手はケガを乗り越え、2年ぶりの一軍マウンドで3勝を挙げました。シーズン終了後は、フェニックスリーグと松山キャンプを完走しました。

髙津 ぜひ来年は、シーズンも完走してほしいと思っています。抹消がなく、ローテーションも外れることなく、100イニングなのか、143イニングなのか、170イニングなのかわかりませんが、チームのためにアウトを積み重ねていってほしいですね。それが彼にとって、当然のシーズンのあり方でしょうし、まだまだゴールは遠いですよ。

【清水昇はリリーフが絶対に合っている】

── ブルペン陣は8回の清水昇投手、抑えの田口麗斗投手の状態が上がらず、最後まで固定することができませんでした。

髙津 去年と比べて、ガクッと落ちてしまいましたよね。ただ、リリーフではよくあることですし、逆にまた覚醒することもあるのがリリーフだと思っています。今年の反省を生かし、オフをしっかり過ごして、いい状態で来年をスタートしてほしいですね。

── 清水投手ですが、二軍で先発調整を続けていました。

髙津 来年はリリーフです。今年は「何かきっかけを......」と思い、先発で球数を投げさせてみたのですが、彼はやっぱりリリーフですよ。絶対そこが合っていると思います。

── 逆に、小澤怜史投手は先発からシーズン途中に中継ぎに回り、最終的にはクローザーを任され11セーブを記録しました。

髙津 正直なところ、彼はリリーフの1イニングとか、ロングマンをまかせたほうが絶対に力を発揮すると思っています。チームにどっしりとしたクローザーがいるなら、彼はその前のいいところで投げさせたいイメージはあります。

── これまで勝ちパターンで投げていた清水投手や田口投手が不調だったことで、小澤投手、大西広樹投手、丸山翔大投手、山本大貴投手などの台頭がありました。来年のイメージは?

髙津 なんとなくイメージしていますけど、やっぱり左が少ないですよね。来年もそこは頭を悩ませるでしょうね。シーズン終盤の広島戦だったのですが、カープのベンチ入りメンバーを見ると、右と左で4人ずついて、非常にうらやましかった(笑)。もちろん、よければ全員右でもいいんですが、相手からすれば左がいるほうが考えることも多くなるだろうし、いろいろなバランスは整えていきたいですね。

── このオフ、勝ち星にはあまり恵まれませんでしたが、1年間ローテーションを守ったサイスニード投手とミゲル・ヤフーレ投手が退団。ふたりが抜けた穴については?

髙津 新外国人投手については、難しい人選になりますが、失敗できないと思っています。新しく入ってくる彼らが中心になってやってほしいと思っているくらい、かかる期待は大きいです。渉外の方にはいろいろと注文をつけて申し訳ないですけど、候補をたくさん挙げていただいて、まさに今、映像を見て絞っている最中です。ひとつの希望として、チームにパワーピッチャーが少ないので、日本人にはない強さを持った投手をお願いしています。

※12月に入り、ピーター・ランバートとマイク・バウマンの両投手を獲得

── 新しい人というところでは、ドラフトで最速159キロ右腕の中村優斗投手(愛知工業大)を1位で指名しました。

髙津 ドラフト前に非常に高い評価をしていた選手のひとりですので、高い期待をしています。1年目からチームを引っ張っていく存在になってほしいなと。近年で言うと、カープの森下暢仁投手や栗林良吏投手。彼らは大学、社会人卒で、新人の時からチームの中心選手になりましたけど、ぜひそういう選手になってほしいと思っています。

── フリーエージェントでは、楽天の茂木栄五郎選手を獲得しましたが、ソフトバンクの石川柊太投手の獲得はなりませんでした。

髙津 チームの弱点を補ってくれる選手だと思っていました。特に投手は、昨年の山﨑福也くん(オリックス→日本ハム)じゃないけど、ローテーションの経験がある投手が入るとものすごく大きい。そういう意味で石川投手は先発の一員として補強したかったのですが、獲得できず残念でした。

【メジャーへ行きたいという気持ちは止められない】

── 松山での秋季キャンプでは、野手には1日1500スイング以上を課すなど、昭和の猛練習のような雰囲気が漂っていましたが、これまではケガをさせないことを最優先にキャンプを続けていました。

髙津 そうですね。絶対にケガをさせてはいけない、疲労を残してはいけないとやってきましたが、うまくいかなかったですね。そこで、しんどい時に耐えられる体づくりにシフトチェンジというか、今までと違ったことをいないといけないと思うので、これはひとつの賭けというか、勝負している最中です。

── フェニックスリーグ、松山キャンプと若い選手を見てきました。どんな印象を受けられましたか。

髙津 まだ練習に一生懸命ついていくだけの選手が多く、一軍選手や先輩選手との差があることはすごく感じました。ここでの練習がすぐに結果にはつながらないでしょうが、振り返った時に「11月の松山キャンプはよかったね」と言えるようなものであってほしいと思います。まだまだ青写真を描けるような段階ではないですけど、いずれは彼らが中心となっていかないといけないので、今のうちにしっかり鍛えて、将来はひとりでもふたりでも多く、チームを引っ張っていく存在の選手になってほしいですね。

── 若手の台頭が待ち望まれるなか、村上選手が早ければ来年オフにメジャー挑戦する可能性があります。

髙津 日本とはまた違ったすばらしい野球が待っているので、若い選手のメジャーへ行きたいという気持ちは止められないですよ。今はテレビ中継もたくさんあるし、アメリカから帰ってきた人からの話も聞ける。見て、聞いて憧れるのは当然のことですし、チームとして"三冠王"の実績があるムネがいなくなることは、すごく痛いです。でも、この感情というのは僕らでは止められないものだと思っていますし、行くチャンスがあれば、その時までしっかりチームに貢献して、チームメイトが「行ってこい!」と快く背中を押してくれるのであれば、僕は行くべきだという考えです。アメリカで経験する野球というのは、将来必ず「行ってよかった」と思える経験です。

── 2025年、これまでの悔しさを晴らすために、どのような戦い方を思い描いていますか。

髙津 こういうチームにしたい、こういうシーズンにしたい、こういうゲームにしたいという理想はあります。ただ実際は、なかなかうまくいかないのが現実です。しっかり現状を把握して、口で言うのは簡単ですけけど、強いチームをつくっていきたい。そのためには、もう遠慮しないことにしました(笑)。コーチにも注文をつけさせてもらうし、選手も厳しいところでは「頑張れ」とケツを叩きます。それが勝ちにつながるのであれば、ガツガツいきたいなと思っています。

── 髙津監督が指揮を執った5シーズン、チームは6位、優勝、優勝、5位、5位と極端な成績で、優勝した時は貯金20以上、優勝できなかった年は借金20以上です。

髙津 そうですね(笑)。単純なコメントで申し訳ないですけど、10個の勝ち負けでそこの差がついてくるので、10個の負けゲームを勝ちゲームにしたいですね。来年はみんなで、ヒリヒリした充実のシーズンを送りたいと思っています。

高津臣吾(たかつ・しんご)/1968年11月25日、広島県生まれ。広島工業高から亜細亜大を経て、1990年ドラフト3位でヤクルトに入団。魔球シンカーを武器に、ヤクルト黄金時代のクローザーとして活躍。2003年には通算260セーブ、289セーブポイントの日本記録(当時)を達成。04年、シカゴ・ホワイトソックスへ移籍し、メジャーでもクローザーとして活躍。その後、韓国、台湾でもプレー。11年には独立リーグの新潟アルビレックスBCと契約。12年には選手兼任監督として、チームを日本一へと導いた。同年、現役を引退。14年に古巣であるヤクルトの一軍投手コーチに就任し、17年から二軍監督を務めた。その後、20年に一軍監督に就任し、21年、22年とセ・リーグ連覇。21年には日本一に輝いた