飯田哲也インタビュー 前編青木宣親の引退について ヤクルト、MLBでも活躍した青木宣親が2024年シーズン終了をもって現役を引退した。現役生活21年で数多くのタイトルを獲得し、日米通算2730安打を積み上げた"稀代のヒットメーカー"だが、ヤ…
飯田哲也インタビュー 前編
青木宣親の引退について
ヤクルト、MLBでも活躍した青木宣親が2024年シーズン終了をもって現役を引退した。現役生活21年で数多くのタイトルを獲得し、日米通算2730安打を積み上げた"稀代のヒットメーカー"だが、ヤクルトのコーチ時代に若き青木を指導した飯田哲也氏は「後悔している」ことがあるという。その後悔や、ルーキー時代からベテランになって見えた変化、今後への期待などを飯田氏に聞いた。
2024年限りで現役を引退した青木宣親 photo by Sankei Visual
【ルーキー時代から"打撃バカ"】
━━青木選手の引退が発表された時、どう受け止めましたか?
「残念は残念に思いましたが、ここまでの実績を残した選手ですし、球団の意向ではなく本人が決めたことでしょうから、周囲がとやかく言えることではないですね。精一杯の力を出しきって、よくやりましたよ」
━━青木選手がヤクルトに入団した2004年、飯田さんはまだ現役を続けていました。最初の印象はいかがでしたか?
「選手として1年かぶっていますね(2005年に楽天に移籍)。バッティングに対して貪欲で、ずっと打撃練習をやっている印象でした」
━━どんな会話をしたか覚えていますか?
「ベテランとルーキーという関係でしたから、それほど多く話すことはありませんでした。守備に関しては、『こうしたほうがいいよ』と基本的なアドバイスはしたと思います」
━━同時期に早稲田大学からヤクルトに入団し、活躍した選手は多いですね。
「確かに、ピッチャーでは藤井秀悟(2000年入団)、野手では田中浩康(2005年入団)、武内晋一(2006年入団)もそうですね。田中はとにかく頑固でした(笑)。青木も似た傾向がありましたが、とにかく"打撃バカ"でしたね」
━━青木選手は、どんな練習をしていたんですか?
「自分で考えたメニューをやっていて、コーチもあまり口を出していなかったんじゃないでしょうか。がむしゃらに努力していましたから、その姿勢が認められていたんでしょう」
━━飯田さんが見てきた選手のなかで、ルーキー時代からそういった努力をしていた選手を挙げるとしたら?
「ルーキーというくくりではないですが、"努力"という点では宮本慎也がすごかった。あとは、稲葉篤紀もそう。最初はよくない守備も多かったのが、努力を重ねて、日本ハム移籍後にゴールデングラブ賞を獲る選手にまで成長しました。
ヤクルトの選手は、だいたい努力家ですけどね。全体練習の前から自主的に練習するのが普通でした。それは球団の伝統とも言えますが、青木ほど努力をする選手はそういなかったと思います」
【守備と走塁は「力を入れていなかった」】
━━現役生活で日米通算2730安打を記録しましたが、ここまでの選手になると思っていましたか?
「青木自身が2000本安打を目指しているのを感じていましたし、私も『そこまでいけるだろうな』と思っていました。(2005年には)シーズン200安打も達成して球界を代表する選手になりましたから。あっという間に、私の手が届かないところまでいっちゃったなと(笑)」
━━バッティング以外のプレーに関してはいかがですか?
「守備、走塁に関しては力を入れていなかったので、私が(2008年に)ヤクルトの一軍守備・走塁コーチになった時は大変でしたよ(笑)。今思えば、強引にもっと練習をさせておけば、という後悔はあります。ここは私の弱い部分なんですが、『打ってくれたらいいのかな......』と思っていたところがあったかもしれません。それでも、守備に関しては口うるさく言ったほうだと思いますけどね」
━━どんな言葉をかけたんですか?
「『バッティングはいいんだから、守備と走塁も一生懸命やりなさい。三拍子揃った選手になれるはずだから』と。それでも本人は、とにかく打つことに特化していましたね」
━━青木選手はゴールデングラブ賞を7度も受賞している名手、というイメージがファンも多いと思いますが......。
「もともと、それくらいはできてしまうんですよ。走塁でも(2006年に)盗塁王のタイトルを獲っていますし、『守備も盗塁もちゃんとやったらもっとすごい選手になるのに、なんでやらないの? もったいない』という思いしかありませんでした」
━━青木選手に、厳しく指導をしたことはありましたか?
「私が一軍のコーチになってまもなく、ある試合で、青木の怠慢な守備に対して怒鳴りつけたことがあったんです。それに対して青木は『ちゃんとやってます!』と答えたんですが、明らかな怠慢プレーでした。
その試合後、当時の高田繁監督に『青木に謝ってこい』と言われて。『僕は注意しただけです』と伝えたら、青木と私が監督室に呼ばれて『青木に気分よくやらしてやれ』と。それで了承したんですが、思うところはありましたね」
【MLBから帰ってきて見えた変化】
━━飯田さんも現役時代、ゴールデングラブ賞を7度受賞した名センターでしたが、具体的にどういったプレーが怠慢に見えたんですか?
「ほぼ毎日ありましたから、具体例を挙げにくいですね(笑)。外野の間を抜けた打球を追いかけるのが遅くて、二塁打で止められたはずなのに三塁打になってしまったとか、カバーリングが甘くてシングルヒットが二塁打になったり......。野村克也さんが監督だったら、あれだけ打っていても使われなかったかもしれません。
守備は投手の成績、チームの勝敗に関わる大事な役割であることは伝えてはいたんですけどね。ただ、MLBに挑戦して日本に帰ってきた時には、ガラッと変わっていたんですよ」
━━どのように変わっていたんですか?
「チームリーダーの自覚が芽生えていたというか、"チーム優先主義"になっていたんです。私が言っていたこともわかってくれたのかな、とうれしくなりました。それはメジャーで培ったものかもしれませんが、経験を重ねることで『勝つ』ことに対する欲が高まったんだと思います。
私も若い時には『ヒットを打ちたい』『レギュラーになりたい』と自分のことを中心に考えていましたが、ベテランになるにつれて『チームが勝つ』という気持ちが大きくなっていくんです。自分が試合に出ていなくても勝てたらいい、といったように。その変化は、やっぱりうれしかったですよ」
━━気は早いでしょうが、「いずれはヤクルトの監督に」と期待しているファンも多いと思います。
「ヤクルトのスーパースターですから、監督になってほしいという期待は大きいでしょうし、なるべき選手です。それは私個人の願望でもあるのですが、ダメなものはダメ、チームのためにすべてのプレーを全力でやる、といったことを伝えていってほしい。
言葉で『全力でやる』と言うのは簡単です。大事なのは、行動に移せるかどうか。クライマックスシリーズや日本シリーズなどは、みんな一生懸命になるものなんです。でも、シーズン中のプレーも見ている人は見てますから。『普段から一生懸命やろう』というところです。私がヤクルトのコーチ時代に、嫌われてもいいから青木に言い続ければよかった、と後悔している部分ですね」
━━飯田さんは2015年からソフトバンクでコーチを務めることになりますが、その際には同様の指導をされたんですか?
「『一生懸命、全力で』ということは、特にベテランの選手たちにお願いしていましたね。選手たちはそれに応えてくれたし、そうなると自然に若手がそれについてくるんです。
メジャーから帰ってきたあとの青木も、村上宗隆や長岡秀樹をはじめ多くの選手に慕われていますし、いい手本になっていたんだと思います。もし指導者になることがあった時は、自身のような手本になるような選手を育てるべく、あえて"厳しい指導者"であってほしい、というのが私の願いです。いい時も悪い時も、メジャーも経験している青木の"野球観"を伝えてほしいですね」
(後編:今江敏晃監督の1年での解任に「賛成しがたい」 楽天は「球団として変わらないといけない」>>)
【プロフィール】
飯田哲也(いいだ・てつや)
1968年5月18日、東京都生まれ。拓大紅陵高3年時に春夏連続して甲子園に出場し、86年ドラフト4位でヤクルトに入団。捕手として入団するも、野村克也監督に俊足、強肩を買われ外野手に転向。91年から97年まで7年連続ゴールデングラブ賞を獲得し、ヤクルト黄金時代の名手としてチームを支えた。05年に楽天に移籍し、翌年現役を引退。引退後はヤクルト、ソフトバンクでコーチを務め、20年より解説者として活躍。