高い身体能力を活かしたダンクが代名詞だったウィルキンズ photo by Getty ImagesNBAレジェンズ連載30:ドミニク・ウィルキンズプロバスケットボール最高峰のNBA史に名を刻んだ偉大な選手たち。その輝きは、時を超えても色褪せ…


高い身体能力を活かしたダンクが代名詞だったウィルキンズ

 photo by Getty Images

NBAレジェンズ連載30:ドミニク・ウィルキンズ

プロバスケットボール最高峰のNBA史に名を刻んだ偉大な選手たち。その輝きは、時を超えても色褪せることはない。世界中の人々の記憶に残るケイジャーたちの軌跡を振り返る。

第30回は、1980年代から90年代初期にかけて、スラムダンカー&スコアラーとして名を馳せたドミニク・ウィルキンズを紹介する。

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【ジョーダン、バードと演じた名勝負】

 1980年代のNBAで並外れた身体能力と高い得点力を持った選手を挙げるならば、ドミニク・ウィルキンズ(203cm)の名前を出さずにはいられない。アトランタ・ホークスのスーパースターとして、試合中にファンの目に焼きつくような強烈なダンクを叩き込むことから、『The Human Highlight Film(人間ハイライト映像)』というニックネームがつけられたのである。

 父親が軍人で海外生活を長く送っていたこともあり、ウィルキンズはフランスのパリで生まれた。両親の離婚によって厳しい生活環境に直面したが、帰国後に居住したノースカロライナ州ワシントンで母親の「目標に向かって集中すること」と勇気づけられたこともあり、非行に走らずに済んだ。のちにニューヨーク・ニックスでプレーすることになる弟ジェラルドがいたことも、自宅内でいい意味での競争環境が生まれ、アスリートとして飛躍する土台になった。

 地元のワシントン高に進んだウィルキンズは、ノースカロライナ州のクラス3-Aで2連覇を果たす原動力となり、年間最優秀選手も2年連続で受賞する。ある試合では48得点、27リバウンド、9ダンク、8ブロックショットを記録し、全米トップクラスの高校生が集結した1979年のマクドナルド・オールアメリカン・ゲームではMVPに輝いた。

 全米の強豪校から勧誘されたウィルキンズだったが、進学先として選んだのはジョージア大だった。1年生の時から中心選手となり、2年生時の1980-81シーズンに平均23.6得点、7.5リバウンドの数字を記録し、サウスイースタン・カンファレンス(SEC)のファーストチームに2年連続で選ばれた。ジョージア大ではNCAAトーナメントに縁のない3年間を過ごすことになったが、全米屈指の実力を誇っていたことは明らかで、1982年春にNBAドラフトへのアーリーエントリーを表明する。

 ウィルキンズは1巡目3位でユタ・ジャズに指名されたが、すぐにジョン・ドリュー、フリーマン・ウィリアムズ、現金100万ドルと交換でアトランタ・ホークスへ移籍。ウィルキンズがユタでプレーすることを好んでいなかったことに加え、ジャズが財政面で苦しんでいた側面もあったため、このトレードは両チームにとって有益なものになる。ジョージア大のスター選手が地元・アトランタにやってくるという点で、ホークスにとっては最高のトレードになった。

「アトランタのエナジーは、特別だった。私は家族のために、自分の街のためにプレーしているように感じられた」と言うウィルキンズは即戦力となり、1年目から平均17.5得点を記録してオールルーキー・ファーストチームに選出。3年目の1984-85から10シーズン連続で平均25点以上の数字を残し、1985−86シーズンには平均30.3点で得点王に輝いた。オールスターには9年連続で選出されるスーパースターとなり、1985年のオールスター・ウィークエンドのスラムダンク・コンテストで優勝。1988年はマイケル・ジョーダンに敗れたものの、NBA屈指の身体能力を持ったふたりによる決勝がコンテストの歴史に残る名勝負を展開した。

 ホークスにおけるウィルキンズにとっての名勝負と言えば、1988年にボストン・セルティックスと対戦したプレーオフ・カンファレンス準決勝。3勝3敗で迎えたボストン・ガーデンでの第7戦、ウィルキンズはラリー・バードと壮絶な点の取り合いを演じた。

「おそらく私のキャリアで最高のゲームだったと思う。(コート上に)絶対負けたくないふたりの選手がいたわけで、それはまさに銃撃戦のようだった」と語ったウィルキンズは、フィールドゴールを23本中19本という高確率で決めるなど47点の大爆発。しかし、バードは34点中20点を第4クォーターで稼ぐ勝負強さを発揮し、セルティックスが118対116でホークスを倒したのである。

 ウィルキンズはその後もホークスの大黒柱として活躍したものの、バードと繰り広げた激闘からNBAキャリアの最後まで、プレーオフ1回戦の壁を破ることができなかった。

【キャリア晩年は欧州でも輝き放つ】

 1992年1月28日のフィラデルフィア76ers戦でアキレス腱断裂の大ケガに見舞われたが、1992-93シーズンで見事に復活し、ジョーダンに次ぐリーグ2位の平均29.9得点を記録。1993年2月2日のシアトル・スーパーソニックス戦は、ボブ・ペティットの通算2万880点というホークスの歴代最多得点記録を更新した。

 34歳になっても、ウィルキンズは衰えを感じさせないプレーをしていた。しかし、ホークスとしては契約最終年でフリーエージェントとして再契約できる確証がなかったことと、レニー・ウィルキンズコーチがロスターの再編成を希望したことなどがきっかけとなり、トレード期限直前の1994年2月24日にダニー・マニング(1988年のドラフトNo.1ピックのフォワード)と交換で、万年下位のロサンゼルス・クリッパーズにトレードされたのである。

「腹にパンチを食らったようだった。私はそのフランチャイズに心と魂を捧げたし、トレードされるとは思ってもみなかった」と語ったように、ウィルキンズにとってクリッパーズへのトレードはショックな出来事だった。

 トレードから1カ月後にアトランタに戻って古巣と対戦すると、36得点、10リバウンドを記録してチームの勝利に大きく貢献。移籍後の25試合で平均29.1得点を記録したウィルキンズだが、シーズン終了後にフリーエージェントになると、26勝56敗と低迷したクリッパーズを去り、7月25日にセルティックスと契約した。このあと、ドリームチームIIの一員としてカナダで行なわれた世界選手権(現ワールドカップ)に出場して金メダルを獲得。セルティックスで過ごした1シーズンの平均得点は17.8で、ウィルキンズは1995年に長い歴史に終止符を打ったボストン・ガーデンで最後に得点した選手となった。

 1995年の夏、ウィルキンズはギリシャの名門パナシナイコスから2年間で700万ドルの提示を受け入れて入団する。ヨーロッパのスタイルに順応することに時間を要したものの、ユーロリーグでの17試合で平均20.1得点、7.1リバウンドを記録。ユーロリーグ・ファイナルフォーでは準決勝のCSKAモスクワ戦で35点、決勝のFCバルセロナ戦で16点、10リバウンドのダブルダブルという活躍でチームの優勝に大きく貢献し、ウィルキンズ自身も、ファイナルフォーのMVPに選ばれたのである。

「ユーロリーグで優勝したことは大きな名誉だった。NBAとは違った旅だったが、達成感とファンの情熱が、それを信じられないほど特別なものにした」と語ったウィルキンズ。しかし、ギリシャリーグのファイナルではライバルのオリンピアコスとのシリーズで敗戦。ケガを理由に第5戦を欠場したウィルキンズは、チーム首脳陣との関係が悪化して裁判沙汰になるなど1シーズンでパナシナイコスを去り、1996年10月4日にサンアントニオ・スパーズと契約した。

 低迷期のスパーズで1シーズン過ごすと、ウィルキンズは再びヨーロッパに渡り、イタリアのフォルティトゥード・ボローニャと契約。イタリアリーグで平均17.8点を記録したシーズンを終えると、NBAが選手会に対するロックアウトが解除されたあとの1999年2月5日にオーランド・マジックに入団し、弟のジェラルドのチームメイトになった。

 27試合の出場で平均5点に終わったウィルキンズは、このシーズンを最後に、現役を引退。背番号21は2001年にホークスの永久欠番になり、2015年にホークスの本拠地、ステイト・ファーム・アリーナに銅像が建てられた。

 2004年からホークスの重役としてフロントオフィスの仕事をしながら、試合を中継するテレビ局で解説者を務めている。

【Profile】ドミニク・ウィルキンズ(Dominique Wilkins)/1960年1月12日生まれ、フランス・イル=ド=フランス地域圏出身。1982年NBAドラフト1巡目3位指名(ユタ・ジャズ)。
●NBA所属歴:アトランタ・ホークス(1982-83〜1993-94途)―ロサンゼルス・クリッパーズ(1993-94)―ボストン・セルティックス(1994-95)―サンアントニ・スパーズ(1996-97)―オーランド・マジック(1998〜1999)
●オールNBAファーストチーム1回(1986)/スラムダンクコンテスト王2回(1985、90)
●主なスタッツリーダー:得点王1回(1986)

*所属歴以外のシーズン表記は後年(1979-80=1980)