フェンシング・宮脇花綸インタビュー(前編)photo by Fujimaki Goh hair&make-up by Mayumi Shiroishi 2021年の東京五輪まで、オリンピックでのメダル獲得は3大会で3個だった日本フェンシン…
フェンシング・宮脇花綸インタビュー(前編)
photo by Fujimaki Goh hair&make-up by Mayumi Shiroishi
2021年の東京五輪まで、オリンピックでのメダル獲得は3大会で3個だった日本フェンシング(2008年北京五輪:男子フルーレ個人銀/太田雄貴、2012年ロンドン五輪:男子フルーレ団体銀、2021年東京五輪:男子エペ団体金)。それが、競技発祥の地となるフランス・パリ五輪では、男子エペ個人の加納虹輝と男子フルーレ団体の金メダルをはじめ、男子エペ団体の銀、女子フルーレ団体と女子サーブル団体の銅と、トータル5個のメダルを獲得する大躍進を遂げた。
なかでも注目すべき快挙となったのは、女子として初の五輪メダルを獲得した女子フルーレ団体。世界選手権では日本初のメダル獲得(2007年、銅)を実現しながら、その後は男子フルーレや男子エペ、女子サーブルの躍進の陰に隠れていた。それでも、2023年世界選手権で団体銅メダルを獲得。それを自信にして、ついに五輪でのメダル獲得という目覚ましい成果を収めた。
その銅メダル獲得に貢献、大会後も積極的にメディアに登場してフェンシング競技を世間にアピールしたのが、宮脇花綸(三菱電機所属)。そこで今回、「(団体メンバーそれぞれで)得意分野を受け持っている感じです」と、フェンシング界の"広報役"としても十分な役割を果たしている彼女に、パリ五輪までの道のり、メダル獲得の舞台裏などについて、話を聞いた――。
――高校時代、2014年のユース五輪で銀メダル、世界ジュニア選手権で銅メダルを獲得し、2018年からはシニアの団体入り。アジア選手権団体2位や、アジア大会団体優勝などの実績を残して団体メンバーにも定着した感がありました。ところが、東京五輪では代表メンバー入りを逃すことに......。宮脇選手自身、同大会に向けてはどんな状態だったのでしょうか。
「やはり(自国開催の)東京五輪選考レースにおいては相当なプレッシャーがあって、なかなか思うように結果を出せなかった、というのはあります。団体の五輪出場権は開催国枠を使うことなく確定するだろうと思っていましたけど、(その団体の日本代表)メンバー争いのほうが難しい感じで......。
(メンバー入りへの)ランキングポイントを稼ぐために『勝たなきゃいけない』『負けちゃいけない』という思いが強くなってしまって、思いきってやるとか、リスクを冒してでも何かをする、勝負にいく、ということが試合のなかでできなくなっていました」
――実際に東京五輪に出られないと決まったときは、かなりショックだったのではないですか。
「自国での五輪開催はもう一生ないだろうと思っていましたし、(2016年五輪の)リオデジャネイロと東京と2回連続で五輪メンバー入りを果たせなかったので、このまま3回、4回と五輪出場を目指してフェンシングを続けても、ずっと(五輪には)出られないのでは......という思いも生まれて、引退も考えました。そのときはまだ大学を卒業して2年ほどだったので、(フェンシングをやめて)普通に働いてもいいかなという考えも持っていました。
でも、このまま(フェンシング人生を)終えてもどうしようもないというか、(五輪出場が)『ダメだった』で、終わらせてしまうのは不完全燃焼というか......。他にやりたいこともなかったですし、リオ五輪や東京五輪を目指しているときには『パリ五輪まで』という思いもあったので、自分でそう思ったところまでは挑戦したいな、と思いました」
――リオデジャネイロ五輪のときとは違って、東京五輪では自力で団体の出場権を獲得して、チームも強くなっていることも、このまま「諦めたくない」という気持ちのあと押しになったのでしょうか。
「リオ五輪のときは団体ではなく、個人で出場するのが目標でした。でも、東京五輪では(日本が)団体で出場できることは決まっていて、メダルを狙えるチームになってきていたので、リオ五輪のときとは(五輪への)思いもまったく違っていて......。
そういう意味では、自分だけがどうこうじゃなくて、チーム全体が強くなっていた、というのは本当に大きかったですね。その一員でやりたい気持ちはありましたが、次への思いが消えなかった、というのもあるかもしれません」
――東京五輪の戦いを外から見ていて、どんなふうに感じられましたか。
「上野優佳選手も、東晟良選手も、東京五輪の時から個人的には本当に強かったと思います。けど、チームとして若すぎたというか、経験もあまりありませんでした。団体戦ではいいときはみんないいのですが、苦しいときにそこからどう立て直すか、悪い雰囲気になったときにチームとしてどうやっていい雰囲気に変えていくか――そういったところが、まだわかっていないチームだったのかな、というのは感じました。
ですから、次のパリ五輪への3年間はそこをどうするか。負けている状況や追いつかれた状況から、どう勝ちにつなげるチームになるかが、課題になると思いました。
その意味では(実力のある)上野選手と東選手がそろうなかで、そういう役割ができる3人目の選手になることが、個人的な目標になりました。それができれば、本当にメダルも手に入れられるチームになると思ったし、(上野と東の)ふたりでも流れを作り出せないときに、お互いに助け合える3人目、4人目の選手が出てくることは必要だと感じました」
――上野選手や東選手を越える、ということは考えなかったのでしょうか。
「上野選手は年下ですけど、(フルーレ団体の)『エースだ』というのは東京五輪のときから感じていたので、私がエースの座を奪おうとはまったく思っていなかったですね。団体戦で、どうやって彼女の9試合目にいい形につなげていくか、ということを考えていました。『個人戦でも勝ちたい』というのはありますけど、まずはメダルに近い団体戦を考えると、彼女の勝負強さというか、そこは重要な部分なので。
(上野選手は)フェンシングのスタイル的にも攻守そろった選手ですし、ポイントを取りにいく、というのは(日本のなかでは)誰よりもうまいのかなと思うので。とにかく、その彼女につなぐこと。(自分は)それだけを考えていました」
――東京五輪出場が叶わなかったあと、宮脇選手を取り巻く環境もかなり変わったのではないでしょうか。
「東京五輪が終わってから1年間は無職になって、パリ五輪への選考レースが始まったと同時に、現在所属する三菱電機に入って......という感じだったので、確かにそれまでの環境とは変わりました。無職のときはテレビのクイズ番組に出て海外遠征代を稼ぐ、といった感じでやっていました(笑)」
――東京五輪が終わったあと、世間のアスリートへの評価がガラッと変わったと思うのですが......。
「もともと東京五輪が終わったら、スポーツに対する支援は難しくなるだろうな、と思っていましたし、東京五輪自体に対しての世論の目もすごく厳しかったですからね......。自分が五輪に出られなかったのはありますけど、そういうことも関係なく、東京五輪後というのは、すべてのアスリートにとって厳しい状況だった、というのはあると思います。
でも逆に、すべてを失って『そこから自分でどうしていこうかな』という感じだったので、やりたいと思ったことをやったり、試行錯誤しながらやるのも挑戦だなと思って。当時はわりと開き直っていました。
そもそも東京五輪が延期になった2020年の時点で、もう(五輪に)出るのは難しいのはわかっていました。選考レースは残り1試合しかなく、そこで個人のメダルを獲るぐらいでないと(代表メンバー入りは)厳しい状況だったので。
そうして、東京五輪の際には(フェンシングを)続けると決めていて、厳しい状況でパリ五輪を目指すという覚悟はしていたので、東京五輪が終わったあとの状況については、『まあ、こんなものかな』と想像はしていました」
――そういった心境にあって、特に追い込まれるような意識にはならなかった、という感じでしょうか。
「そうですね。生きていけないことはないだろう、と思っていましたから。大学の時からひとり暮らしで、フェンシングの遠征費も自分で払っていました。また、社会人になってからは、(無職の時も含め)親に金銭的な援助をしてもらったことはもちろんないですし、逞しさはありました」
――その後、2022年ワールドカップで個人銅メダルを獲得。2023年に入ってからは、団体でも世界選手権でも表彰台に上がるようになりました。
「2022年の頃はまだ、うまくいかないなと思う時もありました。団体戦では大差で勝っていながら逆転負けしてしまうこともあって。東京五輪で感じた課題を克服できていませんでした。それでも、2023年に入ってからは追いつかれたところから再び相手を引き離すなど、勝つチームになれてきた。やっと、課題を克服したいいチームになったのかな、と思うようになりました」
(つづく)
photo by Fujimaki Goh hair&make-up by Mayumi Shiroishi
宮脇花綸(みやわき・かりん)
1997年2月4日生まれ。東京都出身。三菱電機(株)所属。姉の影響で幼稚園の頃からフェンシングを始める。小学校、中学校時代にはさまざまな大会で活躍。2014年南京ユースオリンピックで日本代表に選出され、女子フルーレ個人で銀メダルを獲得。2016年リオデジャネイロ五輪、2021年東京五輪出場は叶わなかったが、2024年パリ五輪に出場。女子フルーレ団体で銅メダルを獲得した。