引退インタビュー伊東輝悦(アスルクラロ沼津)後編「若いころのイメージを追いかけたりはしなかった」海外クラブ移籍も「ちょっとやってみたかった」 伊東輝悦は、記憶にも、記録にも、刻まれた選手だ。 J1、J2、J3で、合わせて619試合に出場して…

引退インタビュー
伊東輝悦(アスルクラロ沼津)後編

「若いころのイメージを追いかけたりはしなかった」

海外クラブ移籍も「ちょっとやってみたかった」

 伊東輝悦は、記憶にも、記録にも、刻まれた選手だ。

 J1、J2、J3で、合わせて619試合に出場している。J1の出場試合数は歴代9位だが、Jリーグの総出場数では4位に食い込む。

 かくも多くのなかから、忘れ得ぬ試合を抜き出してもらう。

 すぐに挙げたのは、1999年のチャンピオンシップだ。


伊東輝悦が深く印象に残っている選手とは?

 photo by Fujita Masato

 クラブ史上初のステージ優勝を成し遂げた清水エスパルスは、ジュビロ磐田との静岡対決に挑む。アウェーの初戦でⅤゴール負けに終わっていた清水は、ホームの第2戦で90分以内に勝利すれば、年間王者になることができる。

 ところが、34分に先制されてしまう。さらに35分、日本に帰化して三都主アレサンドロと名乗る前のアレックスが退場となる。打開力のあるドリブラーを失った清水だが、37分に主将の澤登正朗が直接FKを決めて同点とする。1-1のまま延長戦に突入した99分にはⅤゴールが生まれ、トータルスコア2-2でPK戦へ持ち込んだ。

「こっちはふたり目のサントスが外して、Ⅴゴールを決めたファビーニョが4人目で外して負けちゃったんだよね。俺は3人目で決めたけど、ホントにホッとした。PKはめちゃくちゃ嫌いだから」

 記憶から消し去れないPKがある。静岡の強豪・東海大一高校で1年生から定位置をつかんだ伊東は、選手権予選決勝のPK戦でキッカーに指名された。

「で、外しちゃったんですよ。それで負けが決まったわけじゃないんだけど、先輩に申し訳なくて、それから嫌いになった。(2024年12月8日開催のプレミアリーグで)チェルシーのコール・パーマーがPKをど真ん中に、フワッと蹴ったんだけど、あんなのよくできるなと思ったもの」

 清水では1999年のJリーグセカンドステージ優勝だけでなく、1996年のナビスコカップ(現在のルヴァンカップ)、2001年度の天皇杯で頂点に立っている。しかし、どちらの試合もピッチに立っていない。

「カップ戦の決勝だと、勝った試合じゃなくて、負けた試合に出ているんだよね」

【オカちゃんの成長曲線はすごい】

 1999年元日の天皇杯決勝は、そのひとつだ。クラブ消滅が決まっていた横浜フリューゲルスの対戦相手が、清水だったのである。

「よく覚えているけど、あれはやりにくかったな。フリューゲルスに勝ってほしいって空気に包まれていたから。実際にそうなったけど、こっちも勝ちたくて戦うわけだからね」


1999年の清水エスパルス時代

 photo by AFLO

 記憶に刻まれた選手にも触れてもらう。

「そりゃ、たくさんいますよ。その時々のチームでね」と、伊東は笑みを浮かべた。

 記憶にメモリーされている選手のなかから、まずはサントスを挙げた。ジーコとともに鹿島アントラーズの黎明期を支え、1995年から2000年まで清水に在籍したブラジル人MFだ。

「1995年に移籍してきた時、俺はプロ3年目で、サントスは35歳くらいだったかな。トレーニングの姿勢とか身体のメンテナンスとかを、近くで見ることができた。プロサッカー選手のお手本みたいな選手でしたよ」

 清水のチームメイトでは、ノボリこと澤登が特別な存在のひとりだ。長く中盤を構成したパートナーである。

「ノボリさん、大嶽(直人)さん、アデミール・サントスとかがいた東海大一が選手権で優勝して、自分も行きたいなと思ったのはちょっとあった。ノボリさんはだから、憧れっていう感じ」

 自身より年下の選手では、岡崎慎司の名前が挙がってくる。「オカちゃんの成長曲線はすごいよ」と、声のトーンを上げた。

「最終ラインの裏へ抜けるタイミングとか、ボールの引き出し方は、入ってきた当時からいい感覚があった。その先のプレーにつながらないところが最初はあったんだけど、シュートまで持っていける、ドリブルもすると、できることがどんどん増えていった。そのうえで、守備での献身性は変わらない。すげえなと思いましたよ」

 日本代表でも傑出した才能と共闘している。

「ゾノ(前園真聖)さんもヒデ(中田英寿)も、名波(浩)さんも、みんなすごかったよ。ほかにもすごい選手はいっぱいいる。名前を挙げたらキリがない。そのなかでも、(中村)俊輔のFKはハンパなかった。最初に見た時は『なんだこれっ』と思ったよ」

【コパ・アメリカ伝説のドリブルシュート】

 清水で10番を背負った澤登も、直接FKの名手だった。スペシャルなキッカーにはそれ以前にも触れてきたが、日本代表で長く10番を背負うレフティは別格だった。

「ノボリさんもうまかったけど、俊輔はスピードが速い。曲がる。落ちる。射程距離が長い。プレーも当然うまいけど、あのキックの精度があるから、相手は簡単に蹴らせたくない。その逆をうまく取ってくるし、若い時はドリブルでシュワッと侵入してきたから、流れのなかでもとんでもない選手だった」

 伊東が「うまい」と話す選手たちには、ある共通点がある。伊東自身にも当てはまる優れた長所がある。相手の対応によってギリギリでパスコースや受け手を変えたり、プレーそのものを変えたりすることができるのだ。

「選択肢は多く持つようにしていて、プレーを変えられるけど、もっとうまく変えられたらいいなと思うんです。相手を見たり、味方を見たりして、判断を変えられるのは貴重というか、すばらしいと思うから。

 外から俯瞰で見ていれば、誰だって『こっちのほうがいい』と気づけるけど、ピッチのなかでもっとスムーズにプレーを変えられたら、もっとよかったなって思う。でも、それが難しい」

 優勝を争う強豪でも、残留がノルマのチームでも、どんなシステムでも、「プレーを変えられる」個人戦術は不可欠だ。サッカーがどれほど進化しても、「変えられる選手」はサバイブできる。

 1999年のコパ・アメリカで見せた伝説のドリブルシュートも、「変えた」結果だった。対ボリビア戦の後半終了間際、センターライン付近から持ち出すと、4人の選手をかわしてペナルティエリア手前まで運び、決定的なシュートを浴びせたのだった。

「ドリブルであそこまで持っていくのは、ひとつ目の選択肢じゃなかったんですよ。パスも考えていたんだけど、出すところがなかったので自分でいくか、という」

 プレーを「変えられる」のは先天的な才能なのか。生まれながらの感覚なのか。あるいは、後天的な学びで習得できるものなのか。

【天才は引退後、何をするのか】

「最後に守る、最後に取るってところは、その人の感性というか直感というか、ホントにその人の能力だと思う。走るとか戦うとかはもちろん大事だし、試合運びのセオリーとかプレーの仕方とかを踏まえたうえで、ゴールを守る、取りきるというところで相手を上回る。そこは直感とか感覚が問われるんじゃないかな、と思う」

 21世紀のサッカーは、テクノロジーとともにある。チームも、選手も、データで語られることが多い。

「今はもう、パソコンのキーボードをポンと押すだけで、データが出てくるでしょ。おっそろしいよね」

 データは客観的な事実を示す。ただ、数字では割りきれないところに、サッカーの面白さが......。

「ある。俺はそう。時代遅れとか言われるかもしれないけど、でもやっぱり、そう思っている自分はいるんだよなあ」

 引退後に何をするのかは、まだ決めていない。

 最上位のライセンスまで取って、監督やコーチとして現場に携わるか。編成やスカウトも面白いんじゃないか、という気持ちもある。Jリーグのクラブで働くには、タイミングも重要だ。「何かしらサッカーに関わりたい」というのが、現時点で言える未来図だ。

「まあ、あまり慌てずに考えます」

 類まれなセンスの持ち主は、プロ入りとともに論理的思考を磨き、そのうえで感性の重要性に行き着いた──。史上最強とも言われる現在の日本代表に、絶頂期の伊東輝悦が加わったら、果たしてどうなるのか。空想の世界でも胸が躍る。

<了>

【profile】
伊東輝悦(いとう・てるよし)
1974年8月31日生まれ、静岡県清水市(現・静岡市清水区)出身。1993年、東海大学第一高校(現・東海大学付属翔洋高校)から清水エスパルスに入団。中盤の要として活躍し、2010年まで在籍する。その後、ヴァンフォーレ甲府、AC長野パルセイロ、ブラウブリッツ秋田と渡り歩き、2017年からアスルクラロ沼津でプレー。各世代の日本代表に選ばれ、1996年アトランタ五輪出場、1998年フランスW杯メンバーにも選出される。2024年10月に現役引退を発表し、32年間の選手生活にピリオドを打った。ポジション=MF。168cm、70kg。