引退インタビュー伊東輝悦(アスルクラロ沼津)中編「若いころのイメージを追いかけたりはしなかった」 伊東輝悦は、なぜ50歳までプロサッカー選手を続けることができたのか。 その大きな理由が、「変化を受け入れる」ことだった。 転機となったコンバー…

引退インタビュー
伊東輝悦(アスルクラロ沼津)中編

「若いころのイメージを追いかけたりはしなかった」

 伊東輝悦は、なぜ50歳までプロサッカー選手を続けることができたのか。

 その大きな理由が、「変化を受け入れる」ことだった。

 転機となったコンバートがある。

 背番号10が似合う攻撃的MFとしてプロ入りした伊東は、3年目の1995年にボランチへ転向する。アトランタ五輪出場を目指す西野朗監督のチームで、未知なる挑戦を打診されたのだった。


マイアミの奇跡と日本代表について伊東輝悦が思うこと

 photo by Fujita Masato

「西野さんに言われた時は、正直『ええっ』て思いました。最初はちょっと嫌でしたね。その当時のイメージとして、あそこのポジションは守備のイメージがすごく強かったから。

 まあでも、西野さんもそんなに無茶な要求はしてこないだろうし、実際にやってみたら守備だけじゃない。攻撃の局面にも間違いなく関われたので、トライしてみようと。まあでも、それもやっぱり性格じゃないかな」

 変化を受け入れて、トライしてみる。その答えは、必ずしも「OK」ではないだろう。「やっぱり、もとのポジションがいい」と考える選手だっているはずだ。

 伊東にとっては僥倖(ぎょうこう)だったのである。両手をダブルボランチに見立てて、ポジションの役割を説明していく。

「何かね、面白かったんです。ダブルボランチだと、ひとりが攻撃重視で、もうひとりが少しうしろとか、じゃないですか。で、年齢を重ねたら、攻撃じゃなくて守備の役割が多くなったりとか」

 ピッチ上の立ち位置が変われば、目にする景色も変わってくる。それもまた、伊東の感性を刺激した。

「中学や高校では、今みたいに情報がたくさんあるわけじゃないし、戦術がどう、分析がどうってことでもなかったので、感覚でプレーしていたところがあった。プロに入った最初の頃もそうだったけど、全体を見られるようになったし。その理由のすべてが『ポジションが変わったから』というわけではないけど、プレーするのが面白くなってきたのはあったね」

【28年ぶりにマイアミの奇跡を見返した】

 ボランチとして攻撃的MFと対峙する。相手の心理が読める。駆け引きで先手を打てる。「まあ、何となくね」と伊東は控えめに笑った。

「相手が何をやりたいのかを読んで、先回りして対応したりとか。守備の局面で喜びを感じるようになったかな。攻撃が好きなのは変わらなかったけど、それに対して変なこだわりはなかった」


アトランタ五輪でもボランチで大活躍

 photo by AFLO

 西野監督のもとで28年ぶりの五輪出場を勝ち取ったチームは、1996年のアトランタ五輪でブラジルを撃破する。「マイアミの奇跡」と呼ばれる世紀のアップセットは、伊東のゴールによって生まれた。

 左ウイングバックの路木龍次のアーリークロスに、城彰二が反応する。相手CBと相手GKが交錯し、誰も触れなかったボールがゴール前へこぼれる。無人のゴールへプッシュしたのは、ボランチから飛び出してきた伊東だった。

「やっぱり攻めが好きだったし、アタッカーだったから。その感覚が生きたのかなと思う。自分がもともと守備の選手だったら、あそこまで出ていっているかどうか。パスを当てて顔を上げて、チャンスになりそうだと思ったから走り出した。たぶん、何かが騒いだんですよ」

 1996年7月21日の伊東は、ゴールへ向かって転がるボールを無意識にプッシュした。あれから28年が経ち、「ホントに触ってよかった」とうなずく。

「そのおかげで、こうやって今でも取材をしてもらえるわけだから」

 記憶のなかにあるブラジル戦は、劣勢のイメージに染まっていた。最近になってフルタイムで見返すと──実は、ほぼ初めてである──違う印象が立ち上がる。

「サンドバッグみたいにやられっぱなしな感じではなかった。最後の15分ぐらいはしのぐ時間帯だったけど、それまでは自分たちがボールを持つ時間もあったし、チャンスもゼロではなかった。ちょっとはできているんだな......と思って」

 ナイジェリアとの第2戦は0-2で敗れたものの、ハンガリーとの第3戦は3-2で勝利した。ナイジェリアは金メダル、ブラジルは銅メダルをつかんだのだから、得失点差でのグループステージ敗退は大健闘だったと言える。

「俺自身は世界大会に出たことがなかったから、どれくらいできるのかなという感じで臨んだ。すごくできたとは思わなかったけど、全然できなかったとも思わなかった。やれないことはないな、と」

【カズさんと北澤さんに申し訳ない】

 アトランタ五輪を戦った選手たちは、大会後に日本代表に招集されていく。伊東も五輪翌年の1997年に国際Aマッチデビューを飾り、1998年のフランスワールドカップのメンバー入りを果たす。史上初のワールドカップへ向けて日本中が沸き立つ裏側で、複雑な思いを抱えていた。

「アジア予選には1試合も出ていないし、フランスワールドカップの直前に使われたのが、たしか代表2試合目で。その自分が入って、カズ(三浦知良)さんと北澤(豪)さんが外れた。俺、残っていいのって。ちょっとびっくりというか、ずっと試合に出ていたおふたりに申し訳ないというか」

 自らを肯定できなかったのは、ピッチに立つことなく大会が終わったからかもしれない。「たしかにそうかもしれない」と伊東は同意し、表情に悔しさをにじませた。

「代表チームのなかでワールドカップの空気を感じられたのは、よかったかなと思う。でも、ピッチでしか感じられないものは、たぶんいっぱいある。ピッチに立たないとスタンドで見ているのと変わらない......というのはちょっと言いすぎかもしれないけど、それぐらい違いがあるよなあと思った」

 4年後の日韓ワールドカップは、メンバー入りを逃した。指揮官フィリップ・トルシエの構想にはしっかりと入っていたのだが、ワールドカップイヤーのスタートでケガをしてしまい、最後のサバイバルレースに参加できなかったのだ。

「アピールして入れなかったのならともかく、その機会をケガで逃してしまった。あれは悔しかったな」

 アトランタ五輪やフランスワールドカップをともに戦った中田英寿、川口能活、城彰二は、ヨーロッパのクラブでプレーした。同じ静岡出身で2学年上の名波浩も、Jリーガーの海外移籍の先駆者となった。

「ヒデ(中田)とかゾノ(前園真聖)さんとかは、五輪当時から海外を意識していたような気がするけど、俺はそこまでの意識は持てなかった。そのふたりとか能活とかは、五輪が終わって代表に呼ばれたけど、俺はすぐには呼ばれなかったし。

 今みたいに、エージェントをつけている選手も少なかった。そういう状況で、海外のクラブから声がかかるか? 見てもらう機会が少ないというのもあるし。現実的に難しいかなと思いつつも、ちょっとやってみたいなというのはたしかにあった」

 Jリーグ黎明期からプレーする伊東らは、年齢別代表と日本代表をアジアのトップレベルへ引き上げ、世界で戦うことをスタンダードとした世代である。未舗装で明かりも乏しい道を彼らが切り開いたからこそ、現在の繁栄があるのは間違いない。

(つづく)

「最初に見た時は『なんだこれっ』と思った」

【profile】
伊東輝悦(いとう・てるよし)
1974年8月31日生まれ、静岡県清水市(現・静岡市清水区)出身。1993年、東海大学第一高校(現・東海大学付属翔洋高校)から清水エスパルスに入団。中盤の要として活躍し、2010年まで在籍する。その後、ヴァンフォーレ甲府、AC長野パルセイロ、ブラウブリッツ秋田と渡り歩き、2017年からアスルクラロ沼津でプレー。各世代の日本代表に選ばれ、1996年アトランタ五輪出場、1998年フランスW杯メンバーにも選出される。2024年10月に現役引退を発表し、32年間の選手生活にピリオドを打った。ポジション=MF。168cm、70kg。