今とは違い、ビザが必要な時代から、韓国へ何度も足を運んできた蹴球放浪家・後藤健生。隣国の大統領による12月3日の「戒厳令」宣言は、世界を驚愕させたが、蹴球放浪家の脳裏に浮かんだのは、韓国における「サッカー」と「独裁政権」、そして「軍事衝突…
今とは違い、ビザが必要な時代から、韓国へ何度も足を運んできた蹴球放浪家・後藤健生。隣国の大統領による12月3日の「戒厳令」宣言は、世界を驚愕させたが、蹴球放浪家の脳裏に浮かんだのは、韓国における「サッカー」と「独裁政権」、そして「軍事衝突」の意外な関係だった。
■世界各国で政府が「機能不全」に
去る12月3日、韓国の尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領が「非常戒厳」を宣言しましたが、国会の決議によって、すぐに解除されました。さらに、国会は14日になって大統領弾劾決議を可決。憲法裁判所が弾劾を認めれば、大統領は罷免されることになります。
来年1月には、アメリカでドナルド・トランプが大統領に復帰します。新政権の閣僚に指名された人物のほとんどは、トランプ次期大統領に忠誠を誓う人物ばかりで、政治の素人がほとんど。
トランプの勝利はインフレに苦しんだアメリカ国民が、バイデン政権に対して反対票を投じたことによるものですが、トランプ次期大統領が主張するように、輸入品に対して高関税を課してしまったら、物価はさらに高騰するはず。また、保護貿易で外国製品を締め出せば、アメリカ産業の国際競争力は、ますます下がってしまいます。つまり、新政権の政策は矛盾だらけなのです。
さらに、ヨーロッパでもフランスやドイツでは極右勢力が台頭。連立政権が崩壊して政府が機能不全に陥ってしまいました。
いわゆる「民主主義」国家で、政治がきちんと機能している国はほとんどなくなってしまいました。
そんな中で、日本では10月の総選挙の結果、自由民主党がオウンゴールで敗北。しかし、中道左派(立憲民主党)が議席を伸ばし、中道(国民民主党)がキャスティングボートを握った状況下で各党が妥協しながら、政治はなんとか前に進んでいます。日本の有権者の投票行動は、素晴らしかったと思います。
■戒厳軍が市民に発砲「百数十人」の死者
さて、韓国の話に戻りましょう。
僕が初めて韓国を訪れたのは、1982年の3月のこと。ソウル運動場(東大門)で行われる第10回韓日定期戦を観戦するためでした。当時は、韓国渡航にはビザが必要で、韓国大使館に何度か通ってようやくビザを取得することができました。
当時は全斗煥(チョン・ドゥファン)大統領の時代でした。
1979年に、1961年の軍事クーデター以来、独裁権力を握っていた朴正熙(パク・チョンヒ)大統領が暗殺されます。全斗煥将軍は事件の捜査に当たっていましたが、軍事クーデターを起こして政権を奪取。戒厳令の下で反対派を弾圧して、1981年に大統領に就任しました。
1980年5月には南部の光州(クァンジュ)で戒厳軍が蜂起した市民に対して発砲。戒厳司令部側の発表で百数十人の死者が出ました(実際の犠牲者は、これより大幅に多かったと言われています)。
■強烈なキックを披露した「大統領」
現在の尹錫悦大統領はもともと検事で、軍人ではなかったため軍部を掌握しておらず、国会の制圧に失敗して非常戒厳は空振りに終わりましたが、朴正熙も全斗煥も軍を思い通りに動かすことができたので、独裁体制を築くことに成功しました。
その後、全斗煥大統領は1987年にやはり軍人の盧泰愚(ノ・テウ)将軍に政権を委譲しますが、1996年には内乱罪で死刑が確定しました(翌年に特赦で釈放)。
ちなみに、全斗煥将軍は陸軍士官学校時代は名ゴールキーパーで、もしサッカーを続けていたら代表入りの可能性もあるような選手でした。ですから、大統領時代には始球式でセンターサークル内からゴールに向かって、強烈なキックを披露することもあったそうです。
1982年に僕が最初に韓国を訪れたのは、今から思うと全斗煥将軍が権力を握ったばかりの、かなりヤバい時期だったようです。