連載 怪物・江川卓伝〜藤田平が明かした攻略法(前編)過去の連載記事一覧>> 藤田平といえば、"鬼平"。1995年の阪神二軍監督時代、鬼平犯科帳になぞらえ、「鬼平となる」と発言。炎天下のなかダッシュを50分課すなど、厳しさを前面に出す指導者だ…

連載 怪物・江川卓伝〜藤田平が明かした攻略法(前編)

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 藤田平といえば、"鬼平"。1995年の阪神二軍監督時代、鬼平犯科帳になぞらえ、「鬼平となる」と発言。炎天下のなかダッシュを50分課すなど、厳しさを前面に出す指導者だった。

 そして監督時代のエピソードとして欠かせないのが、新庄剛志(現・日本ハム監督)との確執だ。95年に足の故障により二軍調整していた新庄に、練習の集合時間に遅れたとして藤田はグラウンドで正座をさせたのだ。

 これは両者の誤解から生まれた懲罰だったが、ことはそれだけで終わらず、その年のオフに新庄は「センスがないから辞めます」と引退宣言をして騒がせた。"虎のプリンス"として絶大な人気を誇っていた新庄との一連の出来事に、藤田は悪役に転じてしまった。

 また95年シーズンは監督の中村勝広の途中休養により監督代行を務め、翌年から正式に一軍監督に就任した。新庄との件で悪役のレッテルを貼られている藤田だが、現役時代は江夏豊、田淵幸一の黄金バッテリーに次ぐ主力として活躍し、阪神の生え抜きで初めて2000本安打を達成した名選手だ。


1981年に首位打者に輝いた藤田平

 photo by Sankei Visual

【低めのボールだけを狙っていた】

 1981年には打率.358で首位打者を獲得。プロ19年で2010試合に出場し、通算2064安打、打率.286、802打点、207本塁打など堂々たる成績を残す。そんな阪神生え抜きのスターが、江川卓との対戦について、しみじみ語ってくれた。

「江川っていうピッチャーと初めて対戦した時の印象は、まず球が速いということですよね。それとドロップのような大きなカーブですよね。ストレートとカーブの緩急の効いたコンビネーションっていうことですよね。そういう意味では、打ちづらいピッチャーだったと思いますよ」

 藤田に江川との対戦成績を告げると、冷静に語り始めた。

「88打数26安打、1ホームラン、8打点で、打率は2割9分5厘ですか。印象のある打席といったら、甲子園(1983年7月12日)での試合で9回にカーブをレフト前に打った同点打かな。それは記憶あるね。1対2だったところを2対2の同点にして、延長になったのかな。

 江川君って、ほかのみんなも言っているのかわからないけど、きれいなスピンがかかった高めの球が速かったよね。僕はもともと高めが苦手というか打たなかったから、江川の低めの球、ストライクゾーンギリギリの低めの球を打っていた。それでヒットが打てたんじゃないかと思うね。高めはボールになる確率が高かったので、そのコースに来たら見逃すっていう感じでした」

 高めのストレートを武器にしていた江川を攻略するうえで、藤田がほかの打者と違うのは初めからその球を捨てていたことだ。ホームランバッターであるならば、確実に高めのストレートを狙いにいくだろう。相手投手の得意球を狙って打つのか、主砲の役目でもあるからだ。

 ただ、これまで江川と対戦した選手の話を聞くと、ほとんどの打者が高めのストレートを意識していた。すべては江川の真っすぐに振り遅れずに対応したいからだ。

 しかし藤田は違った。スタイルがミートに徹する打法だっただけに、自分の苦手なコースが来たらカットで逃げ、得意である低めの球だけを狙った。

「僕は速い球をあまり苦にしなかった。振り回すほうじゃなくて、当てるほうやったから。柔道の嘉納治五郎さんの『相手の力を利用しろ』ではないけど、江川君の力強い球を振り回すのではなく、ミートさえすれば飛んでいくだろうという意識で打っていた。ライトへ引っ張ってやろうなんて考えたことは一度もない。来た球を、打てる球をミートする。バットの太いところに当たれば、どこかへ飛んでいくだろうという感覚ですから」

【高めが見えないように構えた】

 藤田のバッティングスタイルは、球に逆らわないミート打法で、自分の好きな低めのコースを待つタイプ。率を残せるバッターの特徴は、ミート力もそうだが、徹底した"待ち"ができることだ。狙い球を絞り、1打席に一球くるかどうかの甘い球、もしくは好きな球をいかにジャストミートできるか。

 首位打者を狙うタイプの選手は、ある種わがままである。ホームランや打点と違って、率は毎日変動する。だから1打席の集中力がものを言い、貪欲かつ冷静で打席に立たなくてはならない。

「江川君のカーブは、一度上がってからドロンと落ちてくるような感じ。落差の大きいカーブというのか、ストレートが速いから緩急の差が大きいよね。とにかく僕は、高めのストレートに手を出さないようにヘルメットを深く被っていた。ヘルメットのツバを下げ、あえて目線を下げた。高めが見えないような感じで、構えとったんやね。だから、低めの球しか手を出さなかった。それで2割9分ぐらい打てたのかなと思いますね」

 目線に近い高めの球につい手が出てしまうのは、人間の習性といっていい。だから藤田は、あえて高めの球を見ないようにしたのだ。これは藤田だけでなく、阪神のほかの選手もやっていた。

「ミーティングで、"江川対策"というものは特になかった。今でこそ先乗りスコアラーや、データなど充実していますけど、われわれの時代はそんなのはあまりなかったし、大したデータもなしに対戦するだけ。だから、自分なりに考えて対応していました」

 江川がデビューした1979年頃からビデオが普及し始めるが、科学的な分析などはまだ乏しく、過去の対戦記録を頭のなかで呼び起こし、各々対策を練っていく。腕に自慢のある野武士たちがエースという名の剣豪に真っ向勝負する。80年代までは、そんな戦いが繰り広げられていた。

つづく>>

江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している