昨年日本の賞金王に輝いた中島啓太は、2024年はルーキーとしてDPワールドツアー(欧州ツアー)を戦った。3月「ヒーローインディアンオープン」で初優勝をあげ、年間ポイントランキング上位50人が出場する最終戦に進出。8月「パリ五輪」にも出場し…
昨年日本の賞金王に輝いた中島啓太は、2024年はルーキーとしてDPワールドツアー(欧州ツアー)を戦った。3月「ヒーローインディアンオープン」で初優勝をあげ、年間ポイントランキング上位50人が出場する最終戦に進出。8月「パリ五輪」にも出場したが、6月以降は体の痛みに苦しんだ。悔しい思いも残った1年間を振り返る。(取材・構成/谷口愛純)
「鳥肌を感じたまま、ここで終わりたい」
11月のシーズン最終戦「DPワールド ツアー選手権 ドバイ」。ポイントランク47位で参戦した中島は、最終日の18番(パー5)セカンド地点で鳥肌が収まらなかった。
「グリーンの周りをスタンドが囲っていて、人が本っ当にたくさんいた。キャディの岡崎錬さんも鳥肌が立っていて。それを感じたまま、もうここでシーズンを終わりたいと思った」
残り240ydの第2打を5mにつけて拍手を浴びる。2パットで入れて通算9アンダー7位。ポイントランクを35位に上げて欧州での初シーズンを締めくくったが、6月からは体の痛みに苦しんだ。
「何をやってもうまくいかない。もう、試合に出たくない」。そう思ったのは初めてだった。
五輪を引き寄せた初優勝、2カ月後には足の痛みが
本格参戦6試合目の3月末「ヒーローインディアンオープン」で優勝を果たし、ポイントランクは13位に浮上。シーズン終了後の上位10人(有資格者を除く)に与えられる来季PGAツアー出場権獲得に近づいたが、それ以上にうれしい知らせがあった。
「優勝会見のときに、現地の記者から『五輪ランキングで、パリ五輪代表の圏内に入った』と言われて。あの優勝から、オリンピックに出られるかもっていうことしか考えていなかった」
日本代表を決めるオリンピックランキングで、松山英樹に次ぐ2枠目へ。五輪に出られるかもしれない――。そんな期待を抱いた矢先、6月「ヨーロピアンオープン」の試合中、右足に痛みが走った。
医師の診断は、母指球(親指付け根)の種子骨障害。「原因は分からなかった。大会は6位だったけど、ずっと痛くて。出る予定だった翌週のスウェーデン(ボルボ スカンジナビア・ミックス)は休むことに。帰国してリハビリをしたら、痛みは治まった」
日本に戻った翌週、出場権のなかった「全米オープン」終了後に五輪代表入りが決定。埼玉県の自宅で練習中に連絡を受け、「めちゃくちゃ、うれしかった。結果を残したいと思った」。復帰戦の7月初旬「BMWインターナショナルオープン」へ調整を急いだ。
2度目の予定外の帰国 「五輪の最終日の朝、限界が来た」
万全の状態で挑んだ「BMW―」は20位。8月1日からの「パリ五輪」を前に「全英オープン」(7月18日~21日)まで3連戦を組んだが、今度はメジャー直前に腰の痛みが出た。
これも原因が分からない。“だましだまし”戦ったが、メジャーで自身初の予選通過はかなわなかった。「取材を受けても『結果が全てです』としか言えなくて、言葉が見つからなかった。オリンピックまでの1週間は欧州に残って練習しようと思っていたけど、予選にも落ちてかなり落ち込んだこともあって。一度日本に帰ると決めた」
帰国の翌朝、腰痛が悪化して靴下が履けない、顔も洗えない。「かがめなくて。MRI検査でも何も出なくて、ヘルニアでもない。ここ2年くらいは腰痛がなかったのに…。全英と五輪、大きい2試合のタイミングだったので、本当にきつかった」
それでも五輪は待ってくれない。「できることをやるしかない。背中をガチガチにテーピングしてオリンピックに行ったけど、最終日の朝に限界が来た。一度も座ってラインを読めなくて、ティアップも両足でしゃがんでやっていた。本当に、悔しかった」。日の丸を背負った戦いは49位で終えた。
「もう、試合に出たくない」 松山英樹に送ったSOS
パリから帰国後、3週間の休息で体はある程度回復した。8月末の「英国マスターズ」で再び渡欧。ところが、現地入りしたとたんに再び痛みに襲われた。
「4日間戦ったけど、心が折れた。振れないし、何をやってもうまくいかない。ゴルフをやりたくない、もう試合に出たくないと思ったのは初めてでした。このまま、今シーズンが終わりでも良いと思った」。予定していた5連戦は、英国の1試合で終わってしまった。
試合に出るはずだった9月は、大半の時間を自宅のトレーニングジムと練習場で過ごした。「錬さんとパター練習で遊んだり、リハビリしたり。試合を休んでそんなことをしていたら、家族やチームのみんなも、思うことがあると思う。それでも回りがポジティブでいてくれて、つられて自分も段々前向きになったんです」
地元で行われる10月「日本オープン」(埼玉・東京GC)だけは、出場しようと決めた。「日本オープンに勝つために、その前に1試合出ようと思って。国内の試合に出ようか迷っていた」
―『それならスペインに行ったほうがいい。行ってダメなら、棄権しな』
復帰戦として欧州ツアーを勧めたのは、松山英樹だった。
「迷っていたとき、松山さんに相談してみようと思ったんです。松山さんもケガと戦いながら試合に出て、勝っている。試合にエントリーしたら勝つために戦わないといけないし、それを誰よりも実践しているのが松山さんだと、五輪で感じた」
LINEで体の状態と悩みをつづったメッセージは、スマートフォンの画面が埋まるほどの長文だった。返事は電話で返ってきた。
『体に痛みがあっても戦うのは当たり前。日本オープンに出るのは良いと思うけど、今後海外で戦いたいなら、スペインに行った方が良いと思う』
松山との電話は20分間。気持ちが傾いたとき、栖原弘和トレーナーと岡崎キャディからも同じタイミングでスペイン参戦を勧められた。「1週間だけだけど、行ってみよう―」。9月末「スペインオープン」参戦に向けて、久しぶりの欧州に向かった。
力感を抑えたスイングへ 「これなら、また試合ができる」
約1カ月ぶりの試合は予選落ちに終わったが、得たものは大きかった。
「“痛くない振り感”でやることをテーマにしたら、意外とそのスイングが悪くなかった。インドで勝ったときのヘッドスピードが120~122mph(約53.6~54.5m/s)で、スペインで良い力感で振ったら117mph(約52.3m/s)と悪くない数字。ボールスピードも出ているしバランスが良くて、錬さんも『今の球なら安心して見ていられる』って。『このくらいの力感で良いんだ。これなら、試合ができる』と手ごたえがあった」。―また戦える――。今度は自信を取り戻して帰国した。
日本オープンを6位で終えたときには、「最後までやる。最終戦のドバイまで進みたい」と気持ちはすっかり上向いた。
54位まで後退していたポイントランクは、10月「ジェネシス選手権」の27位で51位に浮上。トップ70が出場する「アブダビ選手権」は13位で終えて、最終戦出場圏内の47位に滑り込んだ。
「欧州での最後2戦を良い形で終われて、ポジティブに2025年に入れると思う。ことしは日本の試合を入れて21試合しか出られなかったけど、来年は27試合くらいを目標に。妥協しないチームが支えてくれるので、試合数をたくさんこなせば、もっと良いパフォーマンスも出せると思う」
1年後、再びドバイで大歓声に包まれる自分を想像した。
(後編へ)