井野修が語る思い出の退場劇(前編) チームを問わず、選手間同士の交流が盛んになった今、プロ野球は乱闘に伴う退場が激減。さらに2018年にリクエスト制度が導入されると、抗議に伴う退場も減少の一途をたどっている。かつてはプロ野球を大いに盛り上げ…
井野修が語る思い出の退場劇(前編)
チームを問わず、選手間同士の交流が盛んになった今、プロ野球は乱闘に伴う退場が激減。さらに2018年にリクエスト制度が導入されると、抗議に伴う退場も減少の一途をたどっている。かつてはプロ野球を大いに盛り上げた"退場劇"。通算審判員歴34年、2902試合に出場し、日本シリーズにも12回選出された名アンパイアの井野修氏に、記憶に残る"退場劇"について語ってもらった。
28分間の抗議の末、野球人生初の退場となった森祗晶監督(写真左)
photo by Sankei Visual
【7度の退場処分を宣告】
── 退場処分の理由には何があるのですか?
井野 「審判員への暴行」「審判員への暴言」「審判員への侮辱行為」「選手、コーチ間のトラブル」「危険球」「観客とのトラブル」「遅延行為」の7つが挙げられます。ただ、2018年のリクエスト制度導入以降は、審判員への暴行、暴言、侮辱行為での退場が減少し、最近ではほとんどが危険球退場ですね。
── 井野さんが「退場」を宣告したのは何度あるのですか?
井野 審判員歴34年、通算2902試合において退場させたのは7度です。1995年のグレン・ブラッグス選手(横浜)、2001年の森祇晶監督(横浜)。2004年のマーク・キンケード選手(阪神)、2004年のタフィ・ローズ選手(巨人)、2006年のマーティ・ブラウン監督(広島)、2007年の古田敦也捕手兼任監督(ヤクルト)、岡田彰布監督(阪神)です。
── 大変失礼ながら、抗議を受け退場処分に至るのは、審判員のミスが発端なことが多いのでしょうか。
井野 私は1981年にアメリカのビル・キナモン審判学校に研修留学し、野球の審判員のあり方、退場宣告について学びました。「退場処分というのは、審判員が試合を進行運営するうえで、それを妨げる監督、コーチ、選手を排除するものであり、たとえ判定ミスがあったとしても別物として考えないといけない。ごく日常的に起こりうる行為なのだ」と。メジャーリーグでは選手を含めて、そういう思考です。
【日本一6度の名将に初の退場宣告】
── 初めての退場宣告はグレン・ブラッグス選手(横浜)ですね。
井野 ブラックス選手は、その前に津野広志(=浩)投手や与田剛投手(いずれも中日)からの死球に端を発した乱闘、退場事件を起こしていました。退場処分の理由は「選手間のトラブル」です。ただ、2度とも乱闘に発展するほどの死球ではありませんでした。特に与田投手から死球を受けた時は、彼の顔面を何度も殴打しました。
── 井野さんが退場宣告した時も、死球がきっかけだったのですか?
井野 いえ、ハーフスイングでした。甲子園球場での阪神対横浜戦で、久保康生投手のカウント2−2からの外角低目の投球にブラッグス選手がハーフスイング。球審にスイングか否かを問われた一塁塁審の私は、スイングで三振のジャッジをしたのです。この判定に激昂したブラッグス選手は一塁に向かってきて、日本語で「くそったれ!」という意味の英単語を発したので、「審判員への暴言」を理由に退場にしました。193センチ、100キロの巨体から180センチの私を見下ろすような格好になりました。メジャーを経験した選手は審判員に絶対に手を出しません。それでも与田投手への一件があったので、正直とても恐ろしかったです。
── 西武9年間で8度のリーグ優勝、日本一6度の森祇晶監督(当時・横浜監督)をプロ35年目にして初退場させたと聞きましたが、その経緯は?
井野 2001年、神宮球場でのヤクルト対横浜戦でした。0対0の延長12回、横浜の佐伯貴弘選手の打球をレフトのアレックス・ラミレス選手が前進して捕球。三塁塁審のジャッジは「ダイレクトキャッチ」でアウトでした。佐伯選手は「ヒットじゃないかよ!」と抗議し、森監督も「ボールに人工芝の緑の色がついているじゃないか」と。審判団の判断は「いつついた色なのかはっきりしない」ということでしたが、なかなか納得してもらえませんでした。審判員クルーにおける責任審判の私は森監督に、「監督、もう28分中断です。お客さんをこれ以上待たせるわけにはいきません」と。
── 遅延行為の理由による退場処分の目安は5分間です。
井野 森監督は「退場にできるものならしてみなさいよ」と、選手をダグアウトに引き揚げさせました。結局、退場処分の理由は「審判員への侮辱行為」でした。森監督は現役時代を含め、35年のなかで初めての退場処分だったそうです。「あんたがオレを初めて退場にしたヤツや」と言われました。
つづく>>
井野修(いの・おさむ)/1954年、群馬県生まれ。76年、神奈川大学在籍中にセントラル・リーグ審判部へ入局し、2009年まで所属。03年からセ・リーグ審判部長、両リーグ審判部が統合された2011年からNPB初代審判長を務めた。14年〜22年、NPB審判技術委員長兼日本野球規則委員。23年には四国アイランドリーグPlus、ルートインBCリーグの審判部アドバイザーに就任した。通算審判員歴34年、ペナントレース2902試合出場、日本シリーズにも12度出場している