冷たい秋風が吹くなか、今年も12球団合同トライアウトがZOZOマリンスタジアムで行なわれた。投手、野手総勢45名が新天地を求めて懸命なプレーを繰り広げるなか、大トリのバッターが打席に入ると、スタンドの一角から「パパー!」という声援が聞こえ…
冷たい秋風が吹くなか、今年も12球団合同トライアウトがZOZOマリンスタジアムで行なわれた。投手、野手総勢45名が新天地を求めて懸命なプレーを繰り広げるなか、大トリのバッターが打席に入ると、スタンドの一角から「パパー!」という声援が聞こえてきた。
打席に立っていたのは、西田明央(元ヤクルト)だ。
「ピッチャーが投げる時にも『パパー!』って言っていたんで、ちょっとピッチャーには申し訳なかったですけど。それでちょっと甘い球になってくれたかもしれないですね(笑)」
その打席でこの日2本目のヒットを放っていた西田は、取材の際に大声で笑ってみせた。
登板前の投手と打ち合わせをする西田明央
photo by Murakami Shogo
【2安打含む4出塁の活躍】
長らく西田は、ヤクルトのサブプレーヤーとしての道を歩んできた。
北照高校(北海道)3年時に春夏連続して甲子園に出場し、高校通算本塁打は34本を記録。北海道ナンバーワン捕手として、2010年のドラフトでヤクルトから3位指名を受けて入団。だが、年齢も入団年も2つ上には中村悠平がおり、大きな壁となって立ちはだかった。
中村はヤクルトの正捕手に上り詰め、2015〜19年まで5年連続して100試合以上に出場。20年こそ腰のケガの影響で29試合の出場にとどまったが、その後もチームの柱としてリーグ連覇、日本一に貢献した。
その一方で、西田は苦しんだ。2016年には自己最多となる74試合に出場しているが、そのうちスタメンマスクを被ったのは38試合にすぎない。今シーズンも24試合の出場で、22打数3安打(打率.136)、2打点という成績に終わり、32歳にして戦力外通告を受けた。
戦力外通告を受けた際、スタッフとして球団に残ることを打診されたというが、西田は断ってトライアウト挑戦を決めた。といっても、挑戦を決意したタイミングはかなりギリギリだった。
「もともと受けるつもりなかったんで。(トライアウト参加の)締め切りが11月8日だったんですけど、6日か7日に球団の編成の人に伝えました」
トライアウト挑戦の理由についてはこう語った。
「オファーがなかったらあきらめようと思っていたんですけど......まあ、最後かもしれないし。子どもにも見せられたらいいなと思って」
最後の打席で「パパー!」と叫んでいたのはもちろん、4歳の西田の子どもだ。西田はトライアウトで5打席に立ち、2安打2四球と気を吐くとともに、子どもに雄姿を見せることができた。
【トライアウトで見せた献身力】
5打席で4出塁と結果を残した西田だが、打席以外でも書いておかなければならないことがある。それは西田のキャッチャーとしての顔だ。
今年のトライアウトは、野手の参加者は13名いたが、そのうちキャッチャーは西田と前田研輝(元巨人育成)のふたりだけ。打者2人に投げれば出番が終わるピッチャーと違い、野手は守備をこなしつつ打席に立たなければならず、トライアウトの4、5時間はほぼ出ずっぱりの状態となる。
キャッチャーは特に人数が少ないため、休む時間は皆無に等しい。
「最後は両脚がつっていましたね。守備が終わってすぐに打席に入った時は、『もう振られへん』って思っていました」
そう言いつつも、西田は事前の班分けどおり、午前、午後と計16人の投手の球を受けた。なぜ両脚をつってまで、マスクを被り続けたのか。そこには、ピッチャーに対する西田の思いやりがあった。
「みんなそれぞれの覚悟や目標を持ってきているので、ブルペンキャッチャーの方に受けてもらうのもいいと思いますけど、選手が受けたほうがなんとかしてあげられるんじゃないかと思って......」
ピッチャーのほとんどが、別の球団に所属していた選手だ。西田はピッチャーが代わるごとにマウンドに歩み寄り、数十秒で打ち合わせをしていた。
「サインの確認と、何を投げたいのかを聞いていました。それぞれアピールしたいところが違うと思いますし、ピッチャーが投げたいボールを尊重しました。うまく結果を出せなかった投手もいたと思いますし、そこでもうちょっと力になってあげられたらよかったかなと」
西田は見ず知らずのピッチャーのアピールポイントをわずかな時間で把握し、少ないチャンスを最大限生かせるよう配慮していたのだ。それはプロの世界で、14年間キャッチャーというポジションを務めてきた西田だからこそ成し得たことだろう。
【縁の下の力持ちとして貢献】
西田は長らくサブプレーヤーとしての道を歩んできたと先述したが、決して存在感がなかったという意味ではない。
打力を買われてファーストで起用されたこともあれば、代打としても19年には35回の代打起用で出塁率.314をマークしてチームに貢献。同年のオフには若手の指導や雰囲気づくりを評価されて年俸が200万円アップするなど、ムードメーカーとしての役割も担った。
そしてキャッチャーとしても、中村がケガで29試合出場にとどまった2020年には54試合でスタメンマスクを被り、チームの窮地を救ってきた。
その20年には、小川泰弘のノーヒット・ノーラン達成をキャッチャーとしてアシスト。その実績が評価され、同年9月には「燕(えん)の下の力持ち賞」を受賞。
目立たないところでチームを支えてきた西田だからこそ、舞台がトライアウトになっても急造バッテリーの相方を引き立たせることができたのだろう。
トライアウトで一番よかったポイントを問われると、西田がこう答えた。
「え〜、何ですかね。シートノックで始めから声を出せたのがよかったですね。緊張というか、やっぱりお互いのことをあまり知らない選手でプレーするんで。ああやってシートノックできて、それがよかったんじゃないですか。結果どうこうってよりも」
結果的に西田は断りを入れたが、球団がスタッフとして引き留めたくなったのもうなずける。
今後は現役続行も含め、新しい道を模索することになる。だが、プロ野球選手以外の道を歩んだとしても、グラウンドでの振る舞いと同じように、西田は目配り、気配りを絶やさず相手を立てることだろう。
西田明央がトライアウトで見せたものは、チームを縁の下で支えて続けてきた男の生き様だった。