中尾孝義氏はドラ1で中日入団…レギュラーではない年下の打球音に愕然 今年のドラフト会議では支配下69人、育成54人の計123人が指名された。指名を受けた選手たちはプロへの扉が開け、希望に満ち溢れていることだろう。現役時代に中日…
中尾孝義氏はドラ1で中日入団…レギュラーではない年下の打球音に愕然
今年のドラフト会議では支配下69人、育成54人の計123人が指名された。指名を受けた選手たちはプロへの扉が開け、希望に満ち溢れていることだろう。現役時代に中日、巨人、西武3球団で強肩好打の捕手として活躍した中尾孝義氏は、引退後には阪神でスカウトも務めた。「みんながみんな頑張ってくれたら嬉しいけれど、全員が1軍という訳にはいかない厳しい世界。その辺はしっかり覚悟して来て欲しい」。自身のプロ入りからレギュラー奪取に至るまでの経験を語った。
中尾氏はプリンスホテルから「社会人ナンバーワン捕手」の看板を引っ提げ、1980年ドラフト1位で中日に入団した。それでも「もう不安だらけ。本当にめちゃくちゃ不安でしたね」と回想する。驚愕の場面をいきなり目の当たりにしたからだ。
1981年の新春。「最初は1月9日。寮に入ったその夜でした」。40年以上経った今も日付をはっきり記憶する。室内練習場の片隅で一人の左打者がティー打撃を黙々と繰り返していた。「打球の音がもの凄いんですよ。びっくりして周囲に誰ですか? と尋ねると、僕より年下って言うじゃないですか。2年前に高校の早稲田実業から入った子だよ、と」。川又米利選手で、後には一塁や外野で主力を担う。でも当時は「まだレギュラーでさえなかった」。
ナゴヤ球場での合同自主トレで、さらなる衝撃が待っていた。今度は百戦錬磨のドラゴンズの“顔”だった。「マサカリ打法」の異名を持つ木俣達彦捕手は、中尾氏より一回り上の大ベテラン36歳。にも関わらず、バッティングも肩も衰えなんて微塵も感じられない。「わー、どうしよう。この人には打撃じゃ追い付けないな。どうしたらいいんや」。
悩んでいても何も始まらない。中尾氏は木俣氏に関する情報を収集し、自らのセールスポイントも確認した。「その時に聞いた話では『木俣さんはブロックはしない』という事でした。あとは僕は肩には自信がありました。だからブロックと肩で木俣さんに勝つしかないと思いました」。そうと決まれば練習あるのみだった。
キャンプで、ブロックの技術を徹底的に磨いた。現在のコリジョンルールはなく、走者は本塁を死守するキャッチャーにぶつかって来る。「返球を捕ってタッチにいく姿勢が大切。まず低く入る。タッチしながら向こう(走者)の力に合わせて転がる。よけたら駄目。そこをうまくやる。重心が高いと衝突するが、下からいけば大丈夫」と説明する。
守備重視の指揮官の方針に合致…プロ2年目にリーグ優勝&MVP
中尾氏の実力と真摯な人柄のおかげなのか。同じく正妻を奪いにいく立場の先輩、金山仙吉(当時の登録名は卓嗣)捕手、球団OBで元捕手の新宅洋志氏らがブロックの極意やスローイング、バント処理などを教えてくれた。「金山さんは、僕をライバルとは思ってなかった。『お前には勝てねーわ』と感じていたみたいです」と感謝する。
中尾氏のルーキーイヤーに就任したのが近藤貞雄監督だった。「近藤さんはセンターラインをしっかりやらなければ、という考え方。木俣さんも悪くはないが、守りなら中尾が上だな、と思って頂けたのかな」。指揮官の方針にピタリとはまり、出場試合数で上回った。
2年目の1982年。5月23日の大洋戦(仙台)でレギュラー争いは大きく傾いた。この時点でリーグ打率4位につけ好調だった中尾氏は休養で欠場。木俣氏がマスクをかぶり、若者に負けじと1号本塁打を放つなどした。だが、9回2死から鈴木孝政投手が長崎慶一(当時の登録は啓二)外野手に“つり銭なし”の逆転サヨナラ満塁アーチを浴び、9-10で敗れた。
リードで責任を痛感した。「木俣さんはその時、『あー俺、もう中尾に譲るわ』という気持ちになったそうです」。中日はこの年リーグ優勝を果たし、119試合で打率.282(394打数111安打)、18本塁打47打点をマークした中尾氏はMVPに輝いた。
中尾氏は強調する。「プロの選手は1軍で活躍しないといけない。一度も1軍に上がらずに辞めていく選手はプロじゃないです。指名順位は関係ない。下位からでは1軍に行けないとかはない。育成でもソフトバンク捕手の甲斐拓也とかいます。だから自分が1軍でプレーできるために何をするか」。ドラフト指名された選手が、夢をかなえた喜びに浸るのはよくわかる。だが、同時に先輩たちを含めたサバイバルレースは、もう既に始まっている。(西村大輔 / Taisuke Nishimura)