身体障害者野球チーム「滋賀ビッグレーク」でプレーする井上光紀選手。少年時代から好きな野球への気持ちを持ち続け、高校卒業後に滋賀への入団を機についに野球人としてデビューした。そんな若武者が入団から7年近く持ち続ける目標が「日本代表に選ばれるこ…
身体障害者野球チーム「滋賀ビッグレーク」でプレーする井上光紀選手。
少年時代から好きな野球への気持ちを持ち続け、高校卒業後に滋賀への入団を機についに野球人としてデビューした。
そんな若武者が入団から7年近く持ち続ける目標が「日本代表に選ばれること」であった。全国大会では選抜チームに入り、代表選手を相手に互角に戦うなどその実力を発揮している。
今回はそんな井上選手に、これまでの野球人生を振り返ってもらった。
(取材 / 文:白石怜平、以降敬称略)
「野球をやりたい」想いを持ち続けた学生時代
滋賀県出身の井上は、療育手帳を所持している。
「小1の頃ですかね。後から聞いたのですが、アスペルガー症候群の可能性があると診断されたそうです。小4の頃には周囲の空気を読む・読めないで悩んでしまい、うつ病を発症してしまいました。それで療育手帳を取得しまして、通級指導教室に入っていました」
少年時代から野球が好きで、地元のチームへ体験に行くも入団には至らなかった。
中学校では通常学級に入り、ここでも野球部を志したが上下関係の厳しさが濃かったこともあり断念した。ただ野球への想いが消えることはなく、むしろそれが自身の人間形成に大きな影響を与えた。
「自分で入試を受けて、高校でも通常学級に入りました。”野球をやるぞ”という気持ちもあったので、乗り越えられたのだと思います。高校時代の経験が今につながっています」
ついにユニフォームを着て野球をやれると思い、頭も丸くして野球部の門を叩いた。しかし、現実が早くもその想いを打ち砕いてしまう。
「当時、練習時間が長くて夜遅くまでやるようなところでした。通学のことも考えて、卒業する方を取りましたね」
18歳の時に念願叶い、ついに野球の道へ
高校卒業後に就職し社会人となった2018年、ついにその想いが実る時が来た。それは突然のことだった。
「ある日友人から『身体障害者野球というのがあるよ』と言われたんです。知ってはいたのですが、僕みたいな知的障害の人が入れると思っていなかったので、聞いてみたら療育手帳を持っている人も入れると。なので、友人に付き添ってもらって行ったのが最初です」
身体障害者野球は、療育手帳を持つ選手も1チーム3名まで試合に出場できる。地元の滋賀県にチームがあることもここで初めて知った井上は、ある目標を持って入団を即決した。
「ずっと野球やりたかったですし、世界大会があることも知ってたので、やるなら日本代表を目指してやろうと決めました」
その蓄えていた熱い気持ち。それがグラウンドで力へと変わるのにはそう時間を要さなかった。初練習の時に当時の代表から次の試合への出場を伝えられた。
「練習試合に2番・投手で出させてもらいました。野球を始めてこんな褒められるなんて思っていなかったので、びっくりしたのを覚えています」
試合では待ち焦がれた想いをマウンド上でいかんなく表現した。「ストレートしか投げられなかったので気持ちだけでした」とひたすら力で押す投球を見せ、完投勝利を挙げた。
それはチームが16年に結成されてから、対外試合では記念すべき初勝利という快挙でもあった。
「代表に『ここからチームを強くしていこう』と言っていただき、さらに野球が楽しみになりました」
「本気で日本代表を目指すため」野球一本に
滋賀に入団以降は、「ほぼ皆勤賞です」と語るほど毎週末の練習に打ち込んだ。
本格的に野球を始めて約6年半、当初から投手そして中堅手を務めている。技術も「すごく上がりました!」と自信を持って答えた。
「特に投手としてなのですが、一番得意なのがフィールディングです。身体障害者野球は、下肢障害・上肢障害の選手が一緒のチームでプレーするので、カバーし合うことが大事だと思っています。なので、普段からより力を入れて練習をしています」
一方、パワフルかつ柔軟に打ち分ける打撃も井上の持ち味で、チームでは入団当初から中軸を担っている。
その打撃について語ってもらった中で、ある取り組みをしていたことを明かしてくれた。
「打撃練習は一人でできないので数を打ちたい目的と、療育手帳を持っている選手で試合に出れないメンバーたちのために、障害者ソフトボールも一年半ほどやっていたんです。昨年は滋賀県代表で国体にも出場していました。
ただ似てると言えども競技も異なりますし、僕は野球での日本代表を本気で目指しているので、そのために野球一本に絞りました。何かを得るに何かを捨てないといけないですから」
「アピールしたい」と臨んだ全国大会で本塁打
”日本代表に選ばれる”。その目標は6年半、練習のモチベーションとなっている。
これまで日本代表でプレーしている選手は、全国大会で活躍することで選抜者の目に留まっていた。しかし、滋賀は全国大会への出場が18年春と23年春のみ。
そのため、自身のプレーを見てもらう機会をどうしても欲していた。そんな井上にまたとない機会が訪れたのが昨年の秋だった。
11月に行われた「第25回 全国身体障害者野球選手権大会」。ここでは5年に一度「ワイルドカード」という制度が用いられている。
同大会では地区7ブロックで優勝したチームのみが参加資格を得られるが、ワイルドカードは参加チーム以外で参加希望選手を募集し、「選抜チーム」として大会に出場できる。
「日本代表になるには、全国大会でアピールが必要」と考えていた井上にとって絶好のチャンスだった。
強く抱いている目標を手繰り寄せるため、自ら手を挙げて参加を表明した。選抜チームのメンバーは東北から四国まで、己の実力を見せたいと15人が集まった。
「Nexus」と名付けられた緑のユニフォームに袖を通し、初めて秋の大会の舞台に立つことになった。
「大会に出られる喜びですごくワクワクしていましたし、絶対優勝する・アピールするぞという気持ちで臨みました」
その言葉通り、井上はグラウンドで躍動した。初戦の新潟シリウス戦では3番・中堅でスタメン出場。
この試合では、打者として主軸の働きを見せた。0−0の3回、1死2塁で打席が回ると右前に弾き返し、先制点をもたらした。
ここで終わらず、次の見せ場もやってくる。1点リードを保った5回表、1死1・2塁で打席を迎えた。
3球目を振り抜くと打球は右中間寄りへと飛び、中堅手の頭を超えた。激走を見せた井上は本塁へと滑り込んだ。
「本塁打の打席ではセンターから右方向を狙っていました。柵越えを狙おうとすると、力んでポップフライか三ゴロになってしまうので」
ランニング本塁打で3点を加えたNexusは、井上の全打点で勝利。チームを準決勝進出へと導いた。
強力打線の王者相手に2失点の完投
準決勝では投手として輝きを放つ。対戦相手は岡山桃太郎。岡山は、本大会5連覇を達成している全国No.1のチーム。
昨年9月の第5回世界大会では5人の代表選手を輩出しており、世界一の原動力となった選手たちが揃っている。
Nexusの指揮を執った林啓介監督(東京ジャイアンツ)が初戦の夜、井上の部屋へ行って先発投手であることを直接言い渡した。
本来であれば、名の知れた格上が相手になると相手を過剰に意識してしまいがちであるが、強いハートが武器の若武者にとって、むしろエネルギーになっていた。
「もう楽しみで仕方なかったです。夜に岡山戦の映像を見てシミュレーションしていました。朝5時に目が覚めたのですが、コンディションはすごく良かったです」
これ以上ないアピールの舞台に立った井上は、持ち前の強気な投球で日の丸戦士にも臆することなく、岡山打線を封じ込めていった。
「緊張しないタイプなんです。気持ちで向かっていきました。何度も三塁にランナーを置きましたけども、不安は全くなかったです」
3回に本塁打を浴び2点を先制されるが、以降もスコアボードに0を刻み、「途中でベンチがざわついていました(笑)」と語るほどの投球内容を披露。
チームは敗れてしまうものの一人で投げ抜き、6回2失点という堂々たる結果を残した。岡山はその後の決勝で11点を挙げており、井上の好投が光った。
「チームとして滋賀を盛り上げたい」
日本代表選手が集う全国大会の場で、2試合にわたり投打で実力を見せた。
「あの選手権大会ではアピールできたと思います。本当に楽しかったに尽きますね。今でも思い出すくらい鮮明に覚えています。ここから飛躍してやるぞという気持ちでしたし、解散する時に『僕は日本代表選手になります』とみんなに宣言しました」
と日の丸への目標がさらに高まった。またNexusでの2日間は、さらにスキルアップを図れた期間でもあった。
「林監督にカーブの投げ方を質問しました。『投げる時に腕が緩んでしまうんです』と聞いたら、『壁があるように』と横に立ってくれて指導いただきました」
林監督は、投手としてロッテと阪神で計8年プレー。NPBも経験した指揮官のその教えは的確で、
「今はそのアドバイスのおかげでカーブが一番いいと周囲に言ってもらっています」と、一つ武器をマスターした。
井上は今も自分と向き合い、その技術を磨いている。更なるステップアップに向けて取り組んでいることを明かしてくれた。
「投手では自分がマウンドでどれだけ落ち着いて、コースに投げ分けられるかをテーマにしています。四球を出さないことが一番大事だと思うので。
打者としてはカウントを作れること。それで甘い球が来たら本塁打にできるよう長打力も上げていきたいです」
目標は日本代表と公言する24歳。当然ながらその先も見据え、今も拠点に置く地元のことも考えている。
「国を背負ってプレーすることもそうですが、チームとして全国大会にで続け、地元滋賀県を盛り上げたいです」
自信に満ちた表情でこう語りインタビューを締めた。将来滋賀から日の丸を背負い、藍色のユニフォームで躍動する日はそう遠くないはずである。