大相撲の第52代横綱の北の富士勝昭さんが死去していたことが20日、分かった。82歳だった。現役時代は優勝10回を誇り、横綱に同時昇進した玉の海とのライバル関係は「北玉時代」と呼ばれるなど、一時代をつくった。引退後は千代の富士、北勝海と2人…

 大相撲の第52代横綱の北の富士勝昭さんが死去していたことが20日、分かった。82歳だった。現役時代は優勝10回を誇り、横綱に同時昇進した玉の海とのライバル関係は「北玉時代」と呼ばれるなど、一時代をつくった。引退後は千代の富士、北勝海と2人の横綱を育て上げた名伯楽。1998年の日本相撲協会退職後は解説者に転じ、NHKの大相撲中継などでの歯に衣(きぬ)着せぬ解説は人気を博した。関係者によると、葬儀・告別式は既に近親者によって執り行われ、12月に八角部屋でお別れの会が開かれる予定だという。

 名横綱でもあり、辛口ながらも愛のある解説で、お茶の間でも人気を呼んだ北の富士さんがこの世を去った。2016年12月に心臓の手術を受けて一度は休養したがその後復帰。しかし、23年春場所からは体調を崩し、大相撲中継の解説を休んでいた。今年7月の名古屋場所初日にはNHK中継にVTR出演。北の富士さんは「お久しぶりです」とあいさつ。「今場所は大の里が楽しみ。一緒に楽しみましょう」と語るなど、元気な姿を見せていたが再度の復帰はかなわなかった。

 98年1月、相撲協会を55歳で退職し、NHK解説者に転じた。09年の春場所で、栃煌山が把瑠都につり出された一番を「もっと抵抗しないと。鮭じゃないんだから」と評して話題となるなど、厳しくも愛ある解説やトークで一躍人気者に。放送席で渋い和服やダンディーなスーツを着こなし、力士や親方衆へ時に厳しく、時に優しくメッセージを送った。解説者の元小結・舞の海秀平さん(56)との掛け合いなども有名で、角界のご意見番であり続けた。

 北海道・美幌町で生まれ、旭川市などで育った。元々は野球少年で、高校進学前には道内強豪校からも誘いがあったほど。偶然にも近隣で大相撲巡業があり、そこで後に師匠となる横綱・千代の山(故人)から「(体が)大きいな、やってみるか?」とスカウトされたのが角界入門のきっかけだ。中学卒業後に出羽海部屋へ入門し、本名の「竹沢」のしこ名で1957年初場所で初土俵を踏んだ。

 70年初場所後、ライバル・玉の海とともに横綱に昇進。「北玉時代」を築き、土俵を沸かせた。だが、71年10月に玉の海が急死。その悲報を聞くと、一人横綱になった北の富士さんは「もう相撲を取る気になれない」と漏らし、人目もはばからず涙を流した。突然訪れた親友との別れの悲しみに耐え、その後も看板力士として角界を支えた。

 土俵外での派手な立ち振る舞いから“現代っ子横綱”とも呼ばれた。67年に発売したレコード「ネオン無情」は50万枚の大ヒットで歌番組にも多数出演。ゴルフ、ボウリングにも親しんだ。73年春場所で10度目の優勝。74年初場所で右膝を痛めて途中休場すると、その後は2場所連続全休。復活を期して同年名古屋場所に臨んだが、初日から2連敗すると潔く現役を退いた。

 引退後は井筒部屋を創設。77年10月に現役時代の師匠だった九重親方の死去に伴い、九重部屋を継承した。親方として、千代の富士と北勝海(現八角理事長)の両横綱を育てた。千代の富士が19歳5か月で新十両に昇進すると、激しい気性と鋭い眼光から「ウルフ」の異名を与えた。2人の弟子は85年秋場所から87年春場所まで優勝を独占。九重部屋10連覇を達成するなど“最強部屋”を誇った。

 ◆北の富士 勝昭(きたのふじ・かつあき)本名・竹沢勝昭。第52代横綱・北の富士。1942年3月28日、北海道旭川市出身。57年初場所、出羽海部屋から初土俵。63年春、新十両。64年初、新入幕。同年春、新三役。66年名古屋場所後に大関昇進。その後、九重部屋へ移籍。70年初場所後、玉乃島(後の玉の海)とともに横綱昇進。74年名古屋場所で引退。九重部屋を継承し千代の富士、北勝海の横綱2人を育てた。得意は左四つ、寄り、外掛け、上手投げ。通算786勝427敗69休。現役時代は185センチ、135キロ。