サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような「超マニアックコラム」。今回は、日本サッカー界で起きた「本物の奇跡」と、その舞台裏、そして今季限りでの引退を発表した、その立役者…
サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような「超マニアックコラム」。今回は、日本サッカー界で起きた「本物の奇跡」と、その舞台裏、そして今季限りでの引退を発表した、その立役者について――。
■「もう、奇跡とは言わせない!」
「もうこれはもう、奇跡とは言わせない!」
こんな名文句がNHKアナウンサーの豊原謙二郎さんの口からもれたのは、2019年のラグビー・ワールドカップ、日本がアイルランドを19-12で破ったときだった。だが、日本のサッカーには、確かに「奇跡」としか呼びようのない、いくつかの試合があった。その中で最大のひとつが、1996年アトランタ・オリンピックでのブラジルに対する1-0の勝利であったことに異論をはさむ人は少ないだろう。
その「奇跡」の得点者が、伊東輝悦である。10月31日、彼は「今季限りでの引退」を発表した。だが、現時点ではまだ彼は現役のプロサッカー選手であるため、それに対する敬意から、ここでは敬称は省く。
J3のアスルクラロ沼津所属の伊東は、「スーパーマリオ」のようなつなぎのジーンズ姿で会見に臨み、「ここまで全力で走り続けてきた」と晴れ晴れとした表情で語った。彼は今年8月で50歳となった。今回は、伊東の引退を惜しんで、「マイアミの奇跡」と呼ばれる試合を振り返ってみたい。
その前に、伊東と言えば、忘れられない思い出がある。
1998年10月28日。フィリップ・トルシエの日本代表監督としての第1戦は、大阪の長居スタジアム(現ヤンマースタジアム長居)にアフリカの強豪エジプト代表を招いて行われた。試合は自らへのファウルで得たPKを前半25分に中山雅史が決め、1-0の勝利。しかし、試合後の記者会見に現れたトルシエは、短い言葉を語っただけで席を立った。
「人の命の前では、サッカーなどないに等しい」
実はこの朝、伊東のお母さんが亡くなったという知らせが入ったのだ。しかし、ワールドカップ初出場を果たし、4年後には韓国との共同開催で迎える地元開催のワールドカップに向け、日本サッカー協会もメディアもただただ盛り上がっていた。試合前には何のアナウンスもなく、選手たちが喪章をつけることもなかった。
この試合に向けてトルシエは22人の選手を選出、伊東もそのひとりだったが、交代出場もなく、ベンチに座ったままで90分間を終えた。
試合のことについて何も語らなかったトルシエは、2日に東京で会見を開き、1時間以上にわたって熱弁をふるった。
■王国育ちの「U-12日本代表」エース
私が初めて伊東を知ったのは、1986年夏に日本で開催された少年サッカーの国際大会のときだった。その大会に向けて「U-12日本代表」が組織されたのが、そのチームのエースが伊東だった。当時、彼は「大型FW」だった。清水育ちらしいテクニックとスピードをもち、そのスピードに乗ったまま放つシュートは間違いなく「超小学生級」だった。
しかし、私はこの選手の将来性に小さからぬ不安を感じた。12歳にして(まだ12歳の誕生日は迎えていなかったが…)あまりに出来上がってしまっていたからだ。彼はすでに大人の体つきのように見えた。それを大きな武器にしていたのだが、同年代の選手たちも、やがて中学や高校で急激に身長が伸び、体が大きくなる。いずれ目立たなくなってしまうのではないかと心配したのだ。
だが、それは杞憂だった。彼は、ただ体格やスピードでプレーしていたわけではなく、ずばぬけたサッカーセンスとサッカー頭脳の持ち主でもあったからだ。サッカーというゲームを知り尽くした伊東は、まさに「サッカー王国」清水が輩出した最高クラスのサッカー選手だったのだ。
東海第一高校時代には全国大会出場には恵まれなかったが、国体の静岡県代表として大活躍、卒業後に清水エスパルスでプロとなった。1993年春のことである。当時のJリーグは、若手選手を中心にした「サテライトリーグ」を公式の大会として開催していたが、伊東も最初はその一員としてプレーした。年末には2試合でトップチームのベンチ入りを果たしたが、出場機会はなかった。
■Wエース小倉隆史、前園真聖とともに
Jリーグ・デビューは2年目、1994年の「サントリーシリーズ(第1ステージ)」第21節、6月11日に日本平で行われたG大阪戦(4-1の勝利)だった。3-0のリードで迎えた後半33分にゲームメーカーの澤登正明に代わって出場した。
だが、「ニコスシリーズ(第2ステージ)」に入る前に、監督がエメルソン・レオンからロベルト・リベリーノに代わると、伊東はコンスタントにベンチに入るようになり、9月には4試合連続先発出場を果たす。そして翌1995年、20歳の伊東は完全なレギュラーとなり、清水に欠くことのできない存在になるのである。
それとともに伊東が活躍を始めたのが、1996年アトランタ・オリンピック出場を目指す戦いだった。このチームには、小倉隆史(名古屋グランパス)、前園真聖(横浜フリューゲルス)という圧倒的なエースがいたが、すぐに伊東も欠くことのできない存在となっていく。
1996年3月のオリンピック予選では、全5試合にフル出場。生まれ持ってのポジションセンスでチームをまとめ、実に28年ぶりのオリンピック出場を日本にもたらした。