◆プロレスリング・ノア「齋藤彰俊引退記念大会 Deathtiny」(17日、名古屋・ドルフィンズアリーナ) プロレスリング・ノアは17日、名古屋市のドルフィンズアリーナ(愛知県体育館)で「齋藤彰俊引退記念大会 Deathtiny」を開催した…

◆プロレスリング・ノア「齋藤彰俊引退記念大会 Deathtiny」(17日、名古屋・ドルフィンズアリーナ)

 プロレスリング・ノアは17日、名古屋市のドルフィンズアリーナ(愛知県体育館)で「齋藤彰俊引退記念大会 Deathtiny」を開催した。

 齋藤は、学生時代に競泳のトップアスリートとして活躍。さらに空手も学んだ。中京大学卒業後は就職するも、プロレスラーへ転身し1990年12月20日、愛知・半田市民ホールでの「パイオニア戦志」でデビュー。以後、新日本プロレスで「平成維震軍」などで活躍し一気にトップ戦線へ食い込むも退団。2年間、リングから離れ2000年からノアに参戦し09年6月13日には、リング上で急逝した三沢光晴さん(享年46)の最後の対戦相手となる過酷な運命も背負った。当時は、一部の心ない人々から激しい誹謗(ひぼう)中傷を受けたが逃げることなくリングに立ち続けファンから絶大な支持を獲得した。今年7月13日の日本武道館大会で潮崎豪に敗れ引退を決断した。

 引退試合の相手は今月6日に後楽園ホール大会で「彼の背中に三沢さんを感じる」と丸藤正道を指名した。引退大会には中京高校(現・中京大学付属中京)時代の同級生で元プロレスラーの松永光弘氏、平成維震軍時代の同志で「師匠」と仰ぐザ・グレート・カブキの米良明久さんがプライベートで観戦した。

 

 セミファイナルの「Akitoshi Saito Ridge Road Final」と銘打たれた引退試合で齋藤は、ファンのメッセージ入り横断幕を旗にして右手一本で掲げ、左腕には三沢さんの緑色のガウンを抱えて入場した。

 大きな「彰俊コール」を背にリングインすると三沢さんのガウンをコーナーにささげ一礼。そして丸藤と向かい合った。緑色のリストバンドを齋藤は左手首、丸藤は両手首に巻いていた。ゴングが鳴り、34年あまりのプロレス人生のすべてを丸藤にぶつけた。

 

 強烈なチョップを受け、不知火をラリアットで打破したが、蹴りの連打でダウンを奪われた。そして不知火を浴び、何とかカウント2で返したが、三沢さんの必殺技「フェイスロック」で絞めあげられた。逆境を脱した齋藤は、エルボーを顔面にたたき込んだ。さらにスイクルデスを浴びせ、背後からの蹴りでカウント2に追い込む。

 蹴りが相打ちになると両者はダウン。真・虎王でダウン。そして三沢さんの必殺技「エメラルドフロウジョン」で脳天をマットに突き刺された。

 最後は、エルボーの連打からローリングエルボー、そしてランニングエルボーを「ウォー!」と絶叫しながら顔面に浴び、カウント3を聞いた。試合後、両者は座礼で敬意を表し劇的な試合を終えた。

 引退セレモニーで妻の佳余さん、息子の雅大さん夫妻がリングインした。佳余さん、雅大さん夫妻から花束を贈呈された。これまでは、一切、家族の存在を公にしてこなかった齋藤だが最後には、プロレスラーから1人の男に戻り、闘い続けたリング上で家族と共に記念撮影し感謝の思いを伝えた。

 マイクを持った齋藤は「お越しくださって本当にありがとうございます」とファンに感謝し「プロレスリング・ノア、スタッフのみなさん、選手、俺の宝であるファンのみんなよ、本当にありがとう!」とメッセージを送った。

 続けて「天におられるあの方…俺の師匠、殴り込みをかけた時、闘っていただいた大先輩、空手の師匠、そして青い目の仲間…当にありがとうございます」と三沢さん、小林邦昭さん、「誠心会館」青柳政司館長、共にGHCタッグ王者だったバイソン・スミスさん…亡くなった方々への感謝をささげた。

 そして「ここで引退になりますけど、引退してノアのプロレスファンになるけどこの後のGHCなんて最高じゃねぇか!みんなで熱狂して応援しようぜ!」とメインイベントの清宮海斗と杉浦貴のGHCヘビー級選手権へ期待をかけた。

 さらに「色んな方々にお疲れさまって言ってくれます。それは本当にありがとうございます。でも、リングを下りる、その時までプロレスラーだ。だから見栄を切らしてくれ」と切り出し「倒れぬ疲れないのがプロレスラーだ!」と絶叫すると「彰俊コール」がわき起こった。

 最後に「方舟に乗りし人生、我が心、夜空に輝く月に一点の雲なし」と万感を込め、四方に礼をしリングに別れを告げた。