蹴球放浪家・後藤健生の取材歴は長い。ワールドカップのために「西ドイツ」を訪れたのは、ちょうど半世紀前のこと。ドイツが壁で分断されていた時代だ。■「ベルリンの壁」崩壊から25年 11月には「ベルリンの壁崩壊から25年」という話題がありました…

 蹴球放浪家・後藤健生の取材歴は長い。ワールドカップのために「西ドイツ」を訪れたのは、ちょうど半世紀前のこと。ドイツが壁で分断されていた時代だ。

■「ベルリンの壁」崩壊から25年

 11月には「ベルリンの壁崩壊から25年」という話題がありました。

 1989年11月9日に、当時の東ドイツ(ドイツ民主共和国)が出国規制の緩和を決定。この決定が混乱を引き起こし、「ベルリンの壁」の「検問所」に群衆が殺到。困惑した国境警備隊の現場指揮官が独断でゲートを開放するという形で、東西ベルリンを隔てていた「壁」が崩壊したのです。当時、無名の物理学者だったアンゲラ・メルケル氏(ドイツ前首相)も、その群衆の中の1人でした。

 1945年にドイツが連合国に降伏してヨーロッパでの戦争が終わりました。敗戦国ドイツはアメリカ、イギリス、フランス、ソ連(当時=ソビエト社会主義共和国連邦)の4か国によって分割占領され、西側3国地域は西ドイツ(ドイツ連邦共和国)となり、ソ連占領地域は東ドイツとなったのです。

 ドイツの首都だったベルリンはソ連占領地域内にありましたが、ベルリン市自体も4か国によって分割占領され、ソ連地区(東ベルリン)は東ドイツの首都となり、西ベルリンは西ドイツの1州のような形で飛び地のような形で残りました。

■東西に分断された「サポーター

 社会主義統一党の独裁体制下に置かれ、経済的に停滞した東ドイツの国民は、西側への脱出を図ります。国境は厳重に警備されていましたが、ベルリンは1つの都市だったので、ベルリン経由で多くの人が流出しました。それを防ぐために、1961年8月12日から13日にかけて、東ドイツ政府は東西ベルリンの境界で道路や線路を封鎖。最初は鉄条網の柵のようなもので仕切られていましたが、すぐにコンクリート製の壁が建設されました。

 ちなみに、ベルリン都心部にあったヘルタ・ベルリンのスタジアム(ヘルタプラッツ)は「壁」のすぐ西側にあり、東側に住んでいたサポーターは壁ができたため、観戦に来られなくなってしまいました。そこで、試合のたびに、彼らは壁のそばに集まってスタジアムからの歓声に耳を傾けていたと言われています(壁ができたため、スタジアム周辺は寂れてしまい、後にヘルタは西ベルリン西部のオリンピアシュタディオンに移転します)。

■客船に乗って「ナホトカ港」へ

 さて、壁崩壊から25年。もう、若い人は壁のことを記憶していないのかもしれませんが、壁自体は今でも残されていて観光地化されています。

 その壁が健在だった頃、僕はそれを現地で見ました……というより、そこを通過しようとしました。

 1974年に西ドイツ・ワールドカップ観戦に行く途中のことです。

 当時、ヨーロッパまで行くための最も安上がりな方法は「ソ連経由」でした。

 横浜からソ連の客船に乗って日本海に面したソ連のナホトカ港に入り、そこからハバロフスクまで列車で移動。ハバロフスクからは飛行機でモスクワに。そして、モスクワから希望の都市まで列車で行くというパッケージ旅行があったのです。

 僕は、モスクワ観光の後はワルシャワ、東ベルリン経由で西ベルリンに出るコースを選択しました。

 モスクワから列車に乗って白ロシア(現在のベラルーシ)の首都ミンスク経由でワルシャワに出て、ワルシャワを観光してから再び列車で東ベルリンのアレクザンダープラッツ駅に到着しました。駅の目の前に立っている東ドイツご自慢のテレビ塔などを見てから、僕はいよいよ「壁」を越えることにしました。

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