プロレスリング・ノアの「TEAM NOAH」齋藤彰俊が17日に愛知・名古屋市のドルフィンズアリーナ(愛知県体育館)で引退する。引退試合は、丸藤正道との一騎打ちが決まった。スポーツ報知では、波乱万丈だった34年あまりのプロレス人生を「齋藤彰…

 プロレスリング・ノアの「TEAM NOAH」齋藤彰俊が17日に愛知・名古屋市のドルフィンズアリーナ(愛知県体育館)で引退する。引退試合は、丸藤正道との一騎打ちが決まった。スポーツ報知では、波乱万丈だった34年あまりのプロレス人生を「齋藤彰俊ヒストリー」と題し引退試合の17日まで連載。第14回は「三沢光晴さんに誓った約束」

(福留 崇広)

 三沢光晴さんがリング上の事故で急逝したで2009年6月13日。一夜明けた14日早朝、齋藤は広島市内の病院からホテルへ歩いて戻った。市内を流れる川に架かる橋を渡った。

 「病院からホテルへ足を止めることなく帰る途中にコンビニの前を通ると、店頭に並んでいる三沢さんが亡くなったことを報じるスポーツ紙の見出しが目に入りました。新聞の記事になっていることを見て、現実を突きつけられながら橋を通った時に川岸へ下りました。川面が太陽に照らされていたのを覚えています。川を見つめながら、これから自分は『どうするのか決めないといけない』と自問自答しました」

 この日は、福岡市内の博多スターレーンで大会が待っていた。

 「博多での試合にそんな自分が出ていいのか…このまま引退か?もしくは自ら命を絶つべきなのか?この二択の中で迷いました」

 川を見つめ続けた。

 「迷い続けながら『ちょっと待てよ』と頭に浮かんできました。それは、このことが原因で自分が引退、最悪の場合、命を絶てば一見、責任を全うしたかのように思えます。だけど、三沢さんには、あれだけのファンの方々がいらっしゃいます。ご家族もいっしゃいます。長年、応援、支援を続けてくださった関係者のみなさんもいます。そうしたみなさんにとってこれから怒りをぶつける人間がいなくなったら、どこに怒りをぶつけるんだろう?と思いました。それならば、その怒りを自分は『すべて受け切ろう』と決意しました。受け切るためにはリングに上がらなければならない。これからの人生で真正面から受け切ることが自分がやらなくてはならないことだと思って博多の試合に出場することを決断しました」

 流れる川を見つめながらの決意。これから降りかかるであろう非難も誹謗(ひぼう)も中傷もすべて「受ける」ことを誓った。それは三沢との約束だった。今、この時の思いを振り返ると思い当たることがあるという。

 「あの時にあの決断をしたことは今、振り返ると三沢さんから学んだ『受け』が体にしみ込んだいたのかもしれません。三沢さんは、常にリング上で技を受けて痛くないわけがありません。それでも受けきった。その姿から自分でも気づかないうちに受けることを教わっていたのかもしれません」

 博多へ向かう直前。選手全員で三沢が眠る病院を訪れた。そこには最愛の夫を亡くした妻が駆けつけていた。

 「三沢さんの奥様に『申し訳ありません。私がバックドロップで投げた齋藤彰俊です』とおわびをしました。私の謝罪に奥様は『違うの…あなたのせいじゃないの。だから頑張ってね』とおっしゃっていただきました」

 三沢を失った博多大会。試合前に副社長だった百田光雄が報道陣に急逝を説明。第1試合前にリング上で追悼の10カウントゴングが鳴らされた。本部席には三沢の遺影が飾られた。齋藤は第2試合に出場した。百田と組んでモハメド ヨネ、鈴木鼓太郎と対戦した。涙を流しながらリングに上がった。試合後、遺影に向かって号泣し土下座した。満員の観衆は、励ましの拍手と声援を送ってくれた。

 「三沢さんに約束はしましたが、正直、答えは見つからないままリングに上がりました。三沢さんのファンのみなさんは、優しい気持ちで受け止めてくれる方も多かったですけど自問自答を繰り返しました。リングに上がり続け、受けることは自分で決めたことなのですが、その答えがあっているかどうか…常に自問自答の日々でした」

 齋藤のバックドロップを受けた直後に三沢は意識を失った。死因は「頸髄(けいずい)離断」だった。齋藤は、医師からバックドロップが直接の原因ではないことを聞いていた。しかし、それは、決して口外することはなかった。

 「お医者さんは『頚髄は長年のダメージで切れることはない』とおっしゃっていました。例えば『交通事故なら車で何キロも引きずらないと切れない。その場合は周りの骨がぐちゃぐちゃになる』とも言われました。ところが三沢さんは、骨が折れていませんでした。だから、お医者さんも『なぜ切れたのか、わからない』とおっしゃっていました。このことは、三沢さんがお亡くなりなってから何年か経てから出版された三沢さんについての本に書かれていました。ただ、自分は『すべて受ける』と覚悟した以上、自分から口にするのは、違うと思いました。だから、この事実は本が出るまで口外しませんでした」

 三沢の急逝から一夜明けた博多大会では、広島のリングで三沢のパートナーに抜てきされ齋藤と闘った潮崎豪に大一番が用意された。当初、博多大会ではGHCヘビー級王者の秋山準が力皇猛との防衛戦が予定されていた。しかし、大会前に秋山が「椎間板ヘルニア」を理由に王座を返上。急きょ、新王者決定戦の開催が決定し秋山は潮崎を指名。力皇と対戦した潮崎は勝利し初のGHC王者となった。当時、デビュー5年目で27歳。激震の渦中での戴冠に齋藤は、胸中をおもんぱかった。

 「シオは、シオで最後に三沢さんとタッグを組んで…という思いを背負ったかもしれません。あの状況でベルトを巻いたことは、彼にとって荷が重かったのかもしれません」

 齋藤にとって「潮崎豪」は、「同志」となっていく。

(続く。敬称略)