星野伸之氏は2001年に通算2000K…燕ラミレスから奪った 日本球界屈指の左腕だった星野伸之氏(野球評論家)は、プロ18年目の2001年8月1日のヤクルト戦(甲子園)で通算2000奪三振をマークした。当時はNPB史上17人目の偉業だった。…

星野伸之氏は2001年に通算2000K…燕ラミレスから奪った

 日本球界屈指の左腕だった星野伸之氏(野球評論家)は、プロ18年目の2001年8月1日のヤクルト戦(甲子園)で通算2000奪三振をマークした。当時はNPB史上17人目の偉業だった。「それくらいしかいないのって、こっちがびっくりでした」と笑うが、遅球を駆使して築いた三振の山は誰でもできることではない。しかしながら、この年は不本意すぎる成績でもあった。記録達成後の8月下旬には、思わぬ事態に見舞われた。

 1999年オフにFAで阪神に移籍した星野氏だが、2000年は21登板で5勝10敗、防御率4.04に終わった。チームも最下位。移籍2年目の2001年は巻き返しを誓ってのシーズンインだったが、うまくいかなかった。3月30日の巨人戦(東京ドーム)で2年連続通算9度目の開幕投手を務めたが、2回4失点で降板して敗戦投手。2軍調整を経て4月13日の中日戦(ナゴヤドーム)に先発したが、4回1/3を5失点でKOされて2敗目を喫した。

「2001年は当初、別の誰かが開幕投手に行く予定だったんですよ。何があったのかはわかりませんが、確か4日前くらいに野村(克也)監督から『お前、開幕行くぞ』って急に言われましたから」。好結果を出せば、再び株が上がったところだが、どうにも不調で流れも悪かったようだ。2試合目の登板後は2軍調整が長く続き、1軍に戻ってきたのは7月。役割もリリーフになった。それでも黙々と投げた。

 2回2失点(7月4日中日戦、ナゴヤドーム)、2回1失点(7月7日広島戦、広島)、2回無失点(7月10日横浜戦、横浜)、1回無失点(7月29日横浜戦、甲子園)と徐々に結果も出していった。そしてシーズン7試合目の登板となった8月1日のヤクルト戦(甲子園)で通算2000奪三振の偉業を成し遂げた。3-4の8回から3番手で登板し、9回表にアレックス・ラミレス外野手を三振に仕留めて達成した。

「あと1つってわかっていたんですけど、ラミちゃんから取れるとは思っていなかった。インコースのカーブを空振りで……。意外と左ピッチャーの真っ直ぐが来るというイメージは、遅い(球の)僕でもあるのかなっていうのはありましたけどね。まぁ、いいバッターから取れてよかったなと思いました」と星野氏は笑顔で話した。2024年シーズン終了時点では24人が達成しているが、当時は17人目の快挙だった。

神宮室内練習場で頻脈のためダウン…プロ18年目で初めての経験

「アナウンスされて、その数を知って、えっ、17人しかいないのって思いましたよ。びっくりしたのは通算303勝の(ヴィクトル・)スタルヒン(元巨人など)も2000取っていなかったことですね(通算1960奪三振)」。北海道旭川市出身の星野氏にとって、旧制旭川中出身のスタルヒンは雲の上の人。「同じ旭川だからといって比べられるのもやめてくださいって言っていたんですけど、1個でも上回るものがあって、ちょっとそれはうれしかったですね」。

 誰よりも遅いボールを武器にしての2000奪三振。「三振を確実に取れると思って投げてきてはいなかったので、そういう意味では自分でもびっくりでしたね。おそらく球の速い人が三振を取ってきたでしょうから、その中に入れたというのはね。勝ち星もうれしいんですけど、奪三振はまぁまぁうれしかったです。驚きで、ホントに」と話したが、紛れもない大勲章だ。2001年はその勢いで一時、調子も上がった。

 8月5日の広島戦(広島)では4月13日以来の先発登板で、4回無失点。8月12日の中日戦(ナゴヤドーム)では8回2安打無失点でシーズン初勝利を挙げた。だが、そこからまた暗転した。8月19日の横浜戦(横浜)に先発し、2回0/3を3失点で降板。その次のカードのヤクルト戦(神宮)練習中に体に異変が生じた。「ぶっ倒れたんですよね。神宮の室内で。ものすごくジメジメした日だったんですが、脈がバーッと速くなって……」。

 心拍数が増加する頻脈だった。これが原因でこの年の星野氏の登板はそれ以降なかった。10登板、1勝2敗、防御率4.60で終了。「体調と闘うことになりました。けっこう波がありましたね。どこで来るか、わからないって感じで。今は何ともないんですけどね。あの頃は勝てないストレスとか、そういうことなのかなぁって思いますけど……」。プロ18年目にして初めての経験。まさに思わぬ事態だった。2000奪三振を達成した年に左腕は苦境に立たされた。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)