広島から上京して努力と我慢を積み重ねた竹原は、ついに世界チャンピオンにまで上り詰めた。ただ、喜ぶのはほんの少しの時間だった。初防衛戦に向けては不安しかなかった。乗り切るだけの力も残っていなかったからだ。 「網膜剥離(はくり)ではないんです…

 広島から上京して努力と我慢を積み重ねた竹原は、ついに世界チャンピオンにまで上り詰めた。ただ、喜ぶのはほんの少しの時間だった。初防衛戦に向けては不安しかなかった。乗り切るだけの力も残っていなかったからだ。

 「網膜剥離(はくり)ではないんですが、近い状態になり左目の視力がかなり落ちていたんです」。本来ならばタイトル奪取の3か月後に初防衛戦は予定されていた。しかし、目の回復を祈り半年後まで延ばしたが、多くは望めずウィリアム・ジョッピー(米国)に9回TKO負け。わずか半年間で王座を明け渡し、引退した。

 目標のない毎日。結婚した妻との間に子供も誕生したが、家にいてもやることがなく、居づらい。仕事もせず一日中暇をもてあましている亭主に妻の不満は爆発し、自然とけんかが増えた。家を避けるように昼間はパチンコで時間を潰し、夜になると友人を呼び出し居酒屋に繰り出した。「引退してから2年ぐらいはそんな生活で、特に何もしていなかったんです。この時期もどん底でした」。預金通帳の貯金額は減る一方だった。

 竹原は豪快な見た目とは裏腹に、堅実な面も持ち合わせている。現役時代は仕事もしていたことから、デビューからのファイトマネーには一切手を着けずに全額貯金していた。「世界チャンピンになっても防衛をしていないので、全く稼いではいない」と言うが、プロ25戦で、引退時には約4000万円の貯金があった。それが半分になった頃、一念発起して東京・池上にイタリア料理店「カンピオーネ」をオープンした。一流ホテルで働いていたシェフを雇い、味には自信のある店だったが、竹原が店を空けるとシェフは調理場で飲酒を始め深酔いする。味も酒の進み具合で変わってしまうという最悪の事態。竹原は接客に加え調理場にもに入り孤軍奮闘したが、売り上げはなかなか上がらなかった。そんな中、思いもよらない一本の電話がかかってきた。

 「はい、もしもし…」。TBSからの電話はバラエティー番組への出演依頼だった。「あの時は店をオープンしたばかりでそれ(番組出演)どころではなく、頭の中は店のことでいっぱい。最初は断ったんです」。それでも、不良少年たちを集めボクシングのプロテストに合格させるという企画のコーチ役には「竹原しかいない」と、先方はあきらめなかった。「ならば店の宣伝もかねて3か月ぐらいならいいか」と最後は軽い気持ちで仕事を請け負った。これが、番組出演の経緯だ。

 血気盛んな少年たちとぶつかり合いながら、時には胸ぐらをつかんでにらみ合う。すごみのある広島弁を使った姿がはまり役となり、高視聴率を背景に3年半続き、世界王者時代をはるかにしのぐ知名度を確立した。

 「当時のバラエティー番組の影響は想像以上でした。町を歩いていても、すれ違う人のほとんどが『あっ、竹原だ』と気付いてくれました。握手や写真は当たり前でしたから。ミドル級の世界チャンピオンになった時とは、正直、比べものになりません。スポーツ紙の1面を飾っても一般の人は誰も自分に気付いてくれませんでしたから」

 「ガチンコ!」のおかげで上昇気流に乗った竹原は、仕事の依頼も増えすべてが順調だった。家族4人広い家を求め、都内の一等地に新居も購入した。チャンピオン時代には味わえなかった我が世の春を今度こそおう歌していたのだが、そんな幸せも2014年2月3日を境に一変した。

 「膀胱(ぼうこう)がん ステージ4 余命1年」

 医師からの宣告に186センチの大男が体を小さく丸め、大泣きした。

 「俺は死ぬんだ。本当に死を覚悟した瞬間でした。残された家族はどうなるんだろう。そう思うと毎日パニックにもなりました。本当の意味で、この時が人生の一番のどん底でした」

 体に異変を感じたのは、その2年前。知り合いの医師に診察をお願いしていたが、診断結果はいつも膀胱炎などで、大病ではなかった。しかし、医師からがんを告げられる前日に大量の血尿が出る。ただ事ではないと感じた竹原は病院を変えて検査を受け、がんが発覚した。すでにリンパ節にも転移していた。

 手遅れだとあきらめた。いや、あきらめきれない。

 「当時、まだ2人の子供は中学生と高校生。妻を含め3人を残して死ぬわけにはいかない」

 落ち込んではいたが、努めて明るく前向きに振る舞った。生きる可能性が1%でもあるのならば、その1%にかける。毎日、毎日一緒に泣き崩れていた妻も夫の可能性を信じ、共に闘った。

 抗がん剤治療を2クール、次に膀胱を全摘出した。体重は減り、顔は不自然に黒くなり、髪も抜ける中、専門書を読みあさり「がんになりにくい体にしていった」。野菜は無農薬、特にニンニク、ショウガを多く取り、主食は玄米。手術から2年間は肉も一切口にしなかった。そして「体を極力冷やさず、常に温かくしていた」。その努力が実り無事に5年がたち、今年2月3日にはがん宣告から再発せずに10年が経過した。「すごくないですか。死を覚悟していたんですよ。運がいいというか、自分では奇跡だと思っています」

 竹原の元にはがん患者やその家族から相談に乗ってほしいと多くの電話がかかってくる。その時、竹原はこう伝える。「自分は医者ではないので、してあげられることは何もない。体験したことを話すことしかできません」と。「それでもいいから」と相談者が東京・大森のジムに足を運んでくる。会話は精神的な“特効薬””となり、ジムを訪れた人たちはそれぞれ安心した表情で帰っていくそうだ。

 「がんになって人生観が変わりました。なんでこんなつまらないことでイライラしていたのか。なんでもっと人に優しくできなかったのか。なんでこんなつまらないことでギスギスしていたのか。もっと人生楽しくやればよかった。そう思うと今までの自分が情けなく思えた」

 「現役のボクサー時代にあまり稼げなかったので、引退後はお金を稼ぐことばかり考えていたんですが、病気を境にもっと大切なものに気付かされました。子供たち2人も社会人になったので、これからはかみさんと2人、楽しい人生を過ごしていければ」と、命の大切さを実感しながら日々過ごしている。チャリティーゴルフを開催して、集まったお金をがん関連の施設に「何かの役に立ててほしい」と寄付することにも積極的に取り組んでいる。いい意味で欲がなくなった。ただ、職業柄、この夢、欲だけは捨てられないようだ。

 「うちみたいな小さなジムは、アマチュアのエリートが来るわけでもなく厳しいのは分かっています。でも、ジムから世界チャンピオンを誕生させたい」

 世界ミドル級王座、がん寛解。山あり谷ありの52年間で2度も奇跡を起こした男だ。奇跡とは、常識で考えては起こりえない不思議な出来事だが、竹原の奇跡は本人の努力の上に成り立ったものに他ならない。2度あることは3度目もあるかもしれない。(近藤 英一)=敬称略、おわり

 ◆竹原 慎二(たけはら・しんじ)1972年1月25日、広島・府中町出身。中学時代は柔道で郡大会優勝。16歳の時にプロボクサーを目指して上京。89年5月にプロデビュー。91年10月に西条岳人を7回KOで下し、日本ミドル級王座獲得。その後、東洋太平洋王座も獲得(6度防衛)。V6戦では挑戦者・李成天(韓国)と珍しい相打ちでのダブルノックダウンとなる中、判定で防衛に成功。95年12月に日本人初の世界ミドル級王者となる。引退後の2002年7月に2階級制覇王者の畑山隆則と共同でジムをオープン。過去にはラップCD「下の下のゲットー」を発売したもある。身長186センチの右ボクサーファイター。通算戦績は24勝(18KO)1敗。家族は妻との間に1男女。