ジュニアユース時代から鹿島アントラーズで過ごした数少ない生え抜き選手だった土居聖真(山形)。2011年のトップ昇格後は小笠原満男(アカデミー・テクニカル・ダイレクター)、中田浩二(フットボールダイレクター=FD)ら偉大な先輩と共闘。同期の…

 ジュニアユース時代から鹿島アントラーズで過ごした数少ない生え抜き選手だった土居聖真(山形)。2011年のトップ昇格後は小笠原満男(アカデミー・テクニカル・ダイレクター)、中田浩二(フットボールダイレクター=FD)ら偉大な先輩と共闘。同期の柴崎岳昌子源(町田)とも切磋琢磨し、2014年以降はリーグ20試合以上にコンスタントに出場してきた。

 クラブからの期待も大きく、2015年からは小笠原や野沢拓也が背負っていた伝統の8番を継承。看板アタッカーの1人として重要な役割を担い続けていた。その扱いは、指揮官が石井正忠(タイ代表監督)、大岩剛(パリ五輪日本代表監督)、ザーゴ(クラブ・ボリバル監督)、相馬直樹(JFAインストラクター)、レネ・ヴァイラー(セルヴェット監督)、岩政大樹(ハノイFC前監督)と代わっても、大きく変化しなかった。
 ところが、ランコ・ポポヴィッチ監督が就任した今季は微妙に様相が違っていた。走力や強度、推進力を重んじた指揮官は名古新太郎、師岡柊生、仲間隼斗といったフレッシュな面々を重用。土居のような技術やアイディア、創造性のあるタイプのアタッカーにはあまり興味を示さなかったのだ。

■「もちろん気にはなりますけど、今は山形の選手」

 開幕の名古屋グランパス戦こそ、土居は先発に抜擢され、新戦力・チャブリッチと2トップ気味に使われたが、その後は出番が減少。柴崎が負傷離脱していたこともあり、ボランチでも試されたが、佐野海舟知念慶でいいバランスが取れるようになると、その起用もなくなっていった。5月以降はベンチ外も増え、本人も苦悩の日々を過ごしたに違いない。
「僕と岳の例で言うと、ホントに話さなくても、見てなくても、パスが来るとか、そういうのがあったんです。満男さんだったり、ヤス(遠藤康=仙台)君だったりもそうなんですけど、『こいつだったらこう動いてくれる』『こいつってここに出してくれる』というのがあって、同じ絵を描けていた。そういう信頼関係をもっと密に築いていかないといけないですね」と土居は4月に語っていたものの、そういう場も与えられなかった。
 ここままでは終われない…。山形への完全移籍という決断はそんな思いがあってこそ。7月24日のブライトン戦が鹿島ラストゲームになったわけだが、先にチームを離れた松村優太(東京V)は土居の山形行きを知らされていなかった様子で「ホントにビックリした」とコメント。本当にごく身近な人間だけに相談して、決めたのだろう。
 いったん鹿島を離れた以上、身も心も山形の一員になるつもりで彼は取り組んだ。それが8月以降の11試合4ゴールという結果につながったと言っていい。
「もちろん(鹿島のことは)気にはなりますけど、今は山形の選手なんで、しっかり山形で結果だったり、いろんなものを残していきたいと思ってるんで、あんまり鹿島を気に掛ける余裕がないというか、本当にいっぱいいっぱいなので」と清水戦後にも話していたが、今の土居はいかにして山形をJ1に上げるかに全身全霊をかけている。

■「あまり驚きませんでした」

 目下、ジェフ千葉、ファジアーノ岡山ベガルタ仙台の勝ち点58の4~6位グループとの差はわずかに1。ラスト3試合で、残されているのはロアッソ熊本、水戸ホーリーホック、千葉という難敵とのゲーム。それを土居の力で勝ちに持っていくことができれば、鹿島を離れた意味も大きくなるだろう。
「このタイミングでポポヴィッチ監督が解任され、中後雅喜監督率いる新体制になるのなら、土居は残っていた方がよかったのではないか」という声も聞こえてくるが、本人は「いやあ…」と苦笑。古巣の指揮官交代も「あまり驚きませんでした」と淡々としていた。故郷に戻って3か月。土居は完全に山形の選手になったということなのだろう。
 それは鹿島を長年応援してきた人々にしてみれば寂しいことかもしれないが、一度しかないサッカー人生を後悔することなくまい進できているという意味で、彼自身にとってはポジティブだ。
 鹿島でできなかったチームメートとの阿吽の呼吸や息の合ったコンビネーションをディサロ燦シルヴァーノやイサカ・ゼインらと築き上げることができれば理想的。今後も力強く自らの道をまい進してほしいものである。
(取材・文/元川悦子)

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