独特の取り口を武器に大関に上り詰めた貴ノ浪 photo by Jiji Press連載・平成の名力士列伝16:貴ノ浪平成とともに訪れた空前の大相撲ブーム。新たな時代を感じさせる個性あふれる力士たちの勇姿は、連綿と時代をつなぎ、今もなお多くの…


独特の取り口を武器に大関に上り詰めた貴ノ浪

 photo by Jiji Press

連載・平成の名力士列伝16:貴ノ浪

平成とともに訪れた空前の大相撲ブーム。新たな時代を感じさせる個性あふれる力士たちの勇姿は、連綿と時代をつなぎ、今もなお多くの人々の記憶に残っている。

そんな平成を代表する力士を振り返る連載。今回は、大きな体躯のイメージとは異なる独自の取り口でファンを沸かせた貴ノ浪を紹介する。

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【引っ張り込んで抱える取り口の起源】

 相手に懐に入られてもろ差しを許し、腰が伸び上がってしまえば、どんな力士も万事休すとなるところだが、この男だけは違った。肩越しに取った上手からの投げや足を絡めての河津掛け、相手の差し手を抱えながらの極め出し、小手投げなど、セオリーを度外視した"異能相撲"が貴ノ浪の真骨頂だった。

 青森県三沢市で生まれ、幼少のころは"お祖母ちゃん子"で年の離れた兄、姉を持つ3人きょうだいの末っ子だったこともあり、甘えん坊だった。相撲好きの祖母の影響で小2から廻しを締め、体つきも小学校高学年並みに大きかったが、上級生に負けては泣いてばかりいたという。周囲は「優しい性格だから、それが相撲にも出ているんじゃないか」と見る向きがほとんどだった。

 中学時代にはすでに身長が195センチ、体重は120キロ以上もあり、運動神経もよかったが、稽古はどちらかと言えば、自分から進んでやるタイプではなかった。当時の指導者たちからは「脇を締めて腰を低くして当たれ」と教わっていたが、自分より大きな対戦相手がいなかったため、どうしても引っ張り込んで抱える取り口に終始することに。のちの貴ノ浪の相撲は入門前から形成されていった。

 申し分ない体格と素質は、角界が放っておくはずがない。複数の部屋からスカウトを受けたが、なかでも最も熱心に誘っていたのが、元大関・貴ノ花の藤島親方(当時)だった。一方で勉学も優秀で特に理数系に強かった。生徒会では副会長も務め、人をまとめるのも得意だった。当初、プロ入りは考えていなかったが、相撲は続ける意思があった。中学卒業後は同じ県内の三本木農業高に進み、大学は東京農業大に進むつもりでいた。

 周囲の期待と自身の希望の狭間で、前途有望な少年の心は大いに揺れた。学業の成績も中学時代後半から急激に振るわなくなり、日常生活も荒んでいく。「本人は知識欲が旺盛で大学まで行きたいと思っていたところで、周りからは相撲に行けと言われるし、プレッシャーのなかでやっていけるのかという悩みを抱えていましたね」と中学時代の担任の目には映っていた。

「親にいっぱい迷惑をかけた負い目もあったし、早く自立もしたかった。そのタイミングで親方が来てくれた」とのちに貴ノ浪本人が語っている。最後は父親の「男になれ」のひと言が決め手となり、プロ入りを決意した。

【2度の優勝は貴乃花相手に決める】

 立派な体つきだが、地元では優しい性格を危惧して「すぐに音を上げて帰って来るんじゃないか」という声もなくはなかったが、角界一厳しいと言われた藤島部屋の稽古で揉まれ、入門から4年で新十両に昇進。10代関取となったが、それでも親方からは「1年遅い」と"ダメ出し"されたのは有名な話だ。幕下時代には長いリーチを生かし、突っ張り習得にも取り組んだが、肩の脱臼や大きなケガにもつながりかねないと断念。誰にも真似できない独特な相撲は、そのまま磨かれることになる。

 新入幕の平成3(1991)年11月場所は初日から7連勝と突っ走り、単独トップに立つも後半は大失速で8勝どまり。その後は一進一退を繰り返しながらも徐々に番付を上げ、平成6(1994)年1月場所後、武蔵丸と同時に大関昇進を果たした。

 "若貴"や曙の陰に隠れがちだったが、大きなチャンスが巡って来たのは平成8(1996)年1月場所。横綱・曙、大関・若乃花が序盤で休場し、大関・武蔵丸も9勝と優勝戦線に絡めず、横綱・貴乃花が初日から勝ちっぱなしで終盤まで優勝争いをけん引した。これを1差で大関・貴ノ浪が追いかける展開となり、14日目に貴乃花が関脇・魁皇の上手投げに屈し、両者は1敗で並び千秋楽へ。貴ノ浪は魁皇を、貴乃花は武蔵丸をそれぞれ降し、賜杯のゆくえは同部屋同士による優勝決定戦に持ち込まれた。

 果たして大一番は、立ち合いで鋭く踏み込んだ貴乃花が左差し、右も上手を引いて頭をつけて攻め込んだ。貴ノ浪は右から引っ張り込み、左をねじ込んで横綱の猛攻を堪えるのが精いっぱい。ようやく肩越しに右上手を引いたが、なおも弟弟子の横綱に右外掛けから厳しく寄り立てられ、左足が俵にかかる剣が峰に立たされた。

「やれることは何でもやろうと思った。足が(相手の足に)掛かったからやるしかなかった」

 上体が伸びきりながらも右足を貴乃花の左足に絡めると、そのまま後ろに体を預けた。両者は"重ね餅"のように落ち、河津掛けの奇手で貴ノ浪が初賜盃を手繰り寄せた。

 肝機能障害により大好きな酒を断って8カ月。一念発起して掴んだ栄冠だった。2度目の優勝を成し遂げた平成9(1997)年11月場所も、優勝決定戦で貴乃花を撃破しての賜杯だった。綱取りも期待されたが、持病の両足痛の悪化により35場所務めた大関から陥落。関脇で10勝をマークし、大関復帰を果たしたが、在位2場所で再び陥落。この時は引退も考えたが「俺にしか取れない相撲をお客さんに楽しんでもらいたい」と平幕に陥落しても長く土俵に上がり続け、特に新入幕、大関昇進が同時だった武蔵丸とは幕内で58回も対戦し、"永遠のライバル"が引退した際は、人目もはばからずに号泣。頭脳明晰で雄弁でありながら、涙もろい人情派でもあった。

 平成16(2004)年5月場所2日目を最後に引退。気力、体力は残されていたが、心臓に疾患を抱える身であり"ドクターストップ"がかかったのだ。「全然悲しくない。悲しくないけど、涙が出る」と心優しき男は、やはり涙に暮れながら土俵を去った。

 引退後は年寄音羽山を襲名。持ち前の英知は相撲協会発展のためにさらに発揮されるはずだったが、43歳の若さで逝去したのは惜しまれる。

【Profile】貴ノ浪貞博(たかのなみ・さだひろ)/昭和46(1971)年10月27日生まれ、青森県三沢市出身/本名:浪岡貞博/所属:藤島部屋→二子山部屋→貴乃花部屋/初土俵:昭和62(1987)年3月場所/引退場所:平成16 (2004)年5月場所/最高位:大関