プロレス解説者 柴田惣一の「プロレスタイムリープ」(7)(連載6:『極悪女王』ダンプ松本はリング外もヒールを徹底 リングネームの秘話も>>) 1982年に東京スポーツ新聞社(東スポ)に入社後、40年以上にわたってプロレス取材を続けている柴田…

プロレス解説者 柴田惣一の「プロレスタイムリープ」(7)

(連載6:『極悪女王』ダンプ松本はリング外もヒールを徹底 リングネームの秘話も>>)

 1982年に東京スポーツ新聞社(東スポ)に入社後、40年以上にわたってプロレス取材を続けている柴田惣一氏。テレビ朝日のプロレス中継番組『ワールドプロレスリング』では全国のプロレスファンに向けて、取材力を駆使したレスラー情報を発信した。

 そんな柴田氏が、選りすぐりのプロレスエピソードを披露。連載の第7回は、年間300試合もこなした全日本女子プロレス(以下、全女)の巡業事情と、今年4月にWWE殿堂入りを果たしたブル中野について聞いた。



全女、WWEでも活躍したブル中野 photo by 日刊スポーツ/アフロ

【移動のバスで寝るか、試合をするかの毎日】

――全女は、全盛期には年間300試合を行なっていましたね。

柴田:巡業時代ですね。今では考えられないほどのハードスケジュール。会場から会場へのバス移動ばかりでした。なかには、「バスの中に住んでいるような感覚になる」と言っていたレスラーもいましたよ。いろんな生活用品も持ち込んでいたようで、「今、自分がどこにいるのかわからなくなる」ともぼやいていましたね。

 時にはホテルや旅館に泊まることもあったようですけど、寝るのも基本はバスの中。ベテランのレスラーは後ろの席に陣取って、若手は前のほう。おしゃべりは厳禁です。特に豊田真奈美はとことん寝るタイプで、周囲からは「寝て、起きて試合をして、また寝る。起きているのは試合している時だけ」とも言われていました。

 東京では目黒の事務所近くにあるガソリンスタンドに集合して、そこに止めてあるバスに乗っていました。そこにファンが集まってきて、選手にお弁当やお菓子など食べ物、飲み物などを渡すんです。ファンクラブがけっこう力を持っていて、古参のファンの子たちに出発の時間を教えたりしていましたね。

――それほどに、絶大な人気を誇っていたということですね。

柴田:そうですね。事務所の2階にはファンクラブの事務局があって、レスラーのオーディションに落ちたけど「女子プロに関わりたい」と事務員として働いている人もいました。なかには、そこから再チャレンジしてデビューした川上法子という選手もいました。川上は事務員時代から「チャコ姉」と呼ばれ、ファンに信頼されていましたね。

 そうしてファンからの差し入れを抱えてバスに乗り込むわけですが、特に豊田への差し入れは「毎回、とても凝ったおいしい手作り弁当」と評判だったそうですよ。同じメニューにならないよう、メニューが豊富だったようです。そんな噂が立つと、ほかの選手のファンも「負けてられない」と力が入る。ファン同士もライバルになるというか、その熱心さは「宝塚歌劇団のファンみたい」とも言われていました。

【熱狂しすぎたファンへの"制裁"】

――全女のバスで思い出すのは、1985年8月28日に行なわれた大阪城ホール大会での長与千種vsダンプ松本の「敗者髪切りデスマッチ」。ダンプさんが勝利しましたが、試合後にファンが暴走して極悪同盟のバスを取り囲みました。

柴田:昔はファンが熱狂するあまり、暴走しちゃうことも多かったですね。特に入場の時はひどかった。ある試合で、アイドル歌手出身のミミ萩原が入場する際に、ファンがパニックになって囲まれてしまって。そこで興奮したファンが、萩原の水着の中に手を入れてきたそうなんです。セコンドが間に入って事なきを得たようですが、当時は問題になりました。

 萩原はアイドル時代のことを、「本当はジンジャーエールが好きなのに、ミルクと言わなければならないアイドルが窮屈だった」と振り返っていましたけど......プロレスに転向しても同じような状態というか、完全にアイドル化されていましたね。

――興奮状態のファンは怖いですね。

柴田:そういうことがあってから、若手選手が萩原を肩車して、騎馬戦のような感じで入場するようになったんです。若手の一番の仕事は、行きすぎたファンから人気選手を守ること。昔はフェンスもなかったですし、人気選手は揉みくちゃにされて前に進めなかった。だから入場の際には、セコンドが両脇を固めて、遮断機のように腕を上下させながらファンの手や接触を振り払っていました。もし触られてしまったら、試合後にたっぷり絞られたそうです。

――昔、私が全女の試合を観に行った時には、選手の着替えをのぞいたファンが"制裁"を受けていました。

柴田:昔は「のぞいたり、触ったりするファンが悪い」と、けっこう"制裁されていましたね。それは男子も同じでしたけど。

――若手選手に治療を受けるファンや、スクワットや腕立てをやらされている男性ファンを何度か目撃しました。

柴田:当時はリングサイドにも自由に近づけましたし、プロカメラマンじゃなくても写真を撮っているファンがたくさんいました。そのひとりが、ロッシー小川(現女子プロレス団体マリーゴールドの代表)。彼はもともとカメラ小僧で、全女のスタッフと顔見知りになり、「だったら、うちでカメラマンをやらないか?」と誘われてプロレス業界に入ったんです。

【WWE殿堂入り、ブル中野の魅力】

――ちなみに当時、海外で有名だった日本の女子プロレスラーは誰でしたか?

柴田:今ではASUKAやイヨ・スカイ、カイリ、Sareee、ジュリアなどが有名でしょうけど、WWEの殿堂入りを果たしたブル中野ですかね。メキシコでは、北斗晶が覆面レスラーとして活躍した「レイナ・フブキ」もそうでしたが。

 ブルは1994年11月、日本人で初めてWWE女子王座を獲得しました。当時はニューヨークの五番街に住んでいました。日本人がよく使う「キタノホテル」の近くにあったすごいマンションで、アメリカ国内を飛行機で飛び回る生活だったようです。

――アメリカに渡ってからも大忙しだったんですね。

柴田:ただ、日本食が恋しくて、当時ニューヨークにいた新崎人生や西村修、全女で人気があった山崎五紀などと週3回はみんなで集まって、鍋パーティーをしていたと。その頃は、日本の食材が少なく高額だったようですけど、肉や野菜を入れた鍋ならなんとかなりますから。ちなみに山崎は、ご主人とニューヨークに和食の「GO レストラン」をオープンさせました。人気店で、一時期は新日本の名レフェリー、タイガー服部の息子さんも働いていたそうですよ。

 ブルは1997年、左膝靭帯を2本断裂する大ケガを負って引退しました。その後は、プロゴルファーになるためにフロリダで修行したりしていましたね。2008年にはその夢も断念しましたが、WWE世界女子王座を獲得した唯一の日本人レスラーという実績が認められて、特例でグリーンカード(永住許可証)も取得しました。

――帰国後、2011年には中野に「ガールズ婆バー・中野のぶるちゃん」をオープンしました。

柴田:中野はリーズナブルなお店が多いなかで、「レスラーの価値を高めたい」と、あえて高めの価格設定にしていましたね。それでもファンが押しかけた。後輩レスラーの、山田敏代や三田英津子、吉田万里子、脇澤美穂らも働いていました。お客さんがあまり来ない時も、彼女たちの給料は保証してキチンと支払っていたそうですよ。

――ブルさんは引退時、体重が100キロ以上あったのを3カ月で約50キロも減量。2012年には引退セレモニーが行なわれましたが、現役時代に近い100キロまで増量し、その後にまた急激にやせるなど体型がすごく変わりましたね。

柴田:引退セレモニーのあとは、ヒザのケガの影響で運動が難しくなって、胃を切除しましたよね。小錦も挑戦した究極のダイエット法だけど、レタス2,3枚でお腹いっぱいになっちゃうともと聞いたことがあります。

 大変なことも多かったでしょうけど、そこから"美魔女"としても話題になりましたね。現役時代とのギャップがすごいので、久しぶりに会った人は誰だかわからないかもしれない。アントニオ猪木さんも、2017年のカール・ゴッチさんの納骨式でブルと会った時はわからなくて。弟子の西村に「ブル中野さんですよ」と言われて、驚いていました。

 ブルは気さくでありながら妖艶な魅力もたっぷりで、ファンだけでなくレスラーや関係者の間でも人気が高い。引退してからずいぶん経つのに、いまだに熱心なファンも多いです。現役時代のインパクトはもちろん、今の姿も含めて長く支持されるんでしょうね。

【プロフィール】

柴田惣一(しばた・そういち)

1958年、愛知県岡崎市出身。学習院大学法学部卒業後、1982年に東京スポーツ新聞社に入社。以降プロレス取材に携わり、第二運動部長、東スポWEB編集長などを歴任。2015年に退社後は、ウェブサイト『プロレスTIME』『プロレスTODAY』の編集長に就任。現在はプロレス解説者として『夕刊フジ』などで連載中。テレビ朝日『ワールドプロレスリング』で四半世紀を超えて解説を務める。ネクタイ評論家としても知られる。カツラ疑惑があり、自ら「大人のファンタジー」として話題を振りまいている。