蹴球放浪家・後藤健生は、取材先で既視感に襲われることがある。予期しない場所で突然、ヨーロッパの街並みが出現することがあるのだ。アフリカで、アジアで、蹴球放浪家が目にした、ヨーロッパ諸国による「歴史の爪あと」――。 ■コアラの「好物」がアフ…

 蹴球放浪家・後藤健生は、取材先で既視感に襲われることがある。予期しない場所で突然、ヨーロッパの街並みが出現することがあるのだ。アフリカで、アジアで、蹴球放浪家が目にした、ヨーロッパ諸国による「歴史の爪あと」――。

■コアラの「好物」がアフリカに

 2010年のワールドカップで南アフリカを訪れたとき、インド洋に面した高速道路沿いでユーカリの木々を伐採している現場に遭遇しました。実は、ユーカリの木というのはオーストラリア原産で、水が少ない乾燥地帯でも成長が早いので、世界中の国々で緑化のために植樹されてきたのです。

 つまり、南アフリカにとって、ユーカリは「外来種」ということになります。

 そこで、南アフリカ本来の生態系を取り戻すために、外来種であるユーカリが伐採されていたというわけです。

 南アフリカとオーストラリア……。どちらも南半球にあって、ユーカリがよく育つことからも分かるように、気候や植生などの自然条件もよく似ています。そして、街並みなどもよく似ています。

 それは、どちらもかつての英国植民地だったという歴史によるものです。

■2つの国が「似ている」理由

 南アフリカには、もともとコイサン人という民族が住んでいたのですが、約1000年前にアフリカ大陸中部からバンツー系の人々が南下してきました。僕たちが、いわゆる「アフリカ人」と聞いて思い浮かべる人たちです。それから少し遅れてヨーロッパ人もアフリカ大陸西岸に沿って南下してきます。そして、アジアとの貿易を行っていたオランダ東インド会社はアフリカ最南端の喜望峰近くにケープ植民地を設け、オランダ系の白人がここに住みつきます。

 ヨーロッパからアジアに向かう航路(貿易ルート)の重要な拠点だったからです。ここで農業を営み、貿易船に新鮮な食料などを補給しようというわけです。

 その後、19世紀になると、経済的にも軍事的にも世界の覇権を握った英国がこの地を植民地化しました。300年前から住みついていたオランダ系のアフリカーナー(ボーア人)と戦争を行い、オランダ系の人を内陸部に追いやってしまいます。

 もともと、南半球にあって、同じような緯度で気候風土も似ているオーストラリアと南アフリカですが、英国人はそこに本国と同じような街を作っていったのです。こうして、どちらにも19世紀の英国そっくりの建物が並ぶ街並みが完成したというわけです。

 その景観が、独立後の南アフリカ共和国にも、オーストラリア連邦にも残されているので、旅行者は2つの国が似ていると感じるのです。

■欧州で「最も早く」活躍した国

 さて、ワールドカップの直前直後は飛行機代が高かったため、僕は大会の1週間ほど前に現地入りして、決勝の後も1週間ほどアフリカに滞在してから帰国しました。

 大会前は南アフリカの東隣のモザンビーク、大会後には北隣のジンバブエ、ザンビア、ナミビアを観光して回ったのです。

 モザンビークは、50年ほど前まではポルトガルの植民地(正確には海外領土)でした。あのエウゼビオが生まれたのもモザンビークの首都ロレンソマルケス(現、マプト)で、彼はこの地にあるスポルティングCPの下部組織で育ったのですが、後にプロになるときには激しい争奪戦の末に、スポルティングの永遠のライバルであるベンフィカと契約しました。

 その後、エウゼビオはベンフィカを欧州チャンピオンズカップ優勝に導き、また、1966年にはポルトガル代表のワールドカップ4強入りに貢献しました。その他、ベンフィカやポルトガル代表での同僚のマリオ・コルーナなども、やはりモザンビーク出身でした。

 今では、世界中どこのチームにもアフリカ系の選手がいますが、ポルトガルはヨーロッパで最も早く、アフリカ系の選手が活躍した国でした。

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