彼女が公(おおやけ)の場で苦しい涙を流したのは、2015年1月の全豪オープンがおそらく最後だったろう。 その前年から伊達公子は、左臀(でん)部の痛みに悩まされ続けていた。判然としない治療法に、回復のめどが立たぬ症状……

 彼女が公(おおやけ)の場で苦しい涙を流したのは、2015年1月の全豪オープンがおそらく最後だったろう。

 その前年から伊達公子は、左臀(でん)部の痛みに悩まされ続けていた。判然としない治療法に、回復のめどが立たぬ症状……。それらの不安を翌年にも持ち込んだ伊達は、全豪オープン初戦敗退後の会見の席で「すみません」と小さな声で詫びると、顔を両手に埋め、そのまましばらく微動だにしなかった。



「ジャパンウィメンズオープン」が伊達公子のラストゲームとなる

「試合がどうこうというよりも、このケガから先が見えない、身体がついていかない日がずっと続いていて。それが年齢なのか、ケガなのか、気持ちなのか……。今回コートに立つべきかどうかすら考えたくらいで……」

 目を赤くした顔を上げた後は、そう言葉を絞り出すのが精一杯。思うように動かぬ身体を気持ちでつなぎ止め、当時の彼女は戦っていた。その気持ちが「いつブツっと切れるかわからない」ことをも、素直に認める。

「ただ”その日”が、確実に近づいていることは感じる……」

 約2年半前――真夏のメルボルンの会見室で、彼女は集まる報道陣を前に、そんな言葉をこぼしていた。

 以降の彼女はいかなるときも……少なくとも報道陣を前にしたときは、前向きな姿を崩さなかった。痛みの理由が「大転子(だいてんし)の滑液包炎(かつえきほうえん)」という聞き慣れぬ症状であることを諧謔(かいぎゃく)的に語り、「こんなよくわからないケガが理由でやめるわけにはいきませんよ」と笑みを広げた。臀部のみならず肩、そしてひざにも痛みを覚えながらも、戦いをやめようとはしなかった。

 しかし2016年初頭、亀裂が入った半月板は、もはやプレーの継続を許さぬほどに激しい損傷状態に至る。それでも同年2月、彼女は再復帰を目指し、ひざにメスを入れることを決意した。しかも手術は一度で終わらず、4月21日に再手術を受ける。

『コートへ立てる日がいつ訪れるのか?? 初めてのことだらけで今の時点ではなんとも言えない状況ではありますが、大きな1歩を踏み出すことになることは間違いないです。』

 現状をファンに伝えるブログには、そんな前向きな言葉をつづった。

 術後の彼女がふたたびコートに立ったのは、最後の手術から約1年後の今年5月上旬のことである。場所は、岐阜の長良川競技場。そこは9年前の2008年――当時37歳の彼女が”クルム伊達公子”として、12年におよぶブランクから復帰戦を戦った場所だった。

 奇しくもというべきか、1年の空白からの再復帰戦も同じ開催地の「カンガルーカップ国際女子オープン」となる。9年前のあの日と同じように、多くの観客たちが期待と少しの不安を抱えて見守るなか、彼女はコートへと帰還した。

 いくぶん白くなった肌が、そして傍目(はため)にも細くなったことがわかる足が、長いリハビリの日々を物語る。ただ、獲物を射るような鋭い眼光と、張り詰めた弦を思わせる緊張感や勝負師の本能には、少しの陰りも感じられない。試合自体は初戦で22歳の朱琳(中国)に2-6、2-6で敗れたが、彼女は「やっとスタートラインに立てた」と笑顔を見せた。

 この復帰戦の数日後、彼女は次なる試合を戦うために韓国へと旅立った。審判もおらず、スコアボードも自分たちでめくらなくてはいけない下部大会の予選試合。その予選3試合を勝ち上がるが、本戦の初戦で肩の痛みがひどくなり、第2セットの途中で棄権している。以降、彼女は今日まで2試合を戦うが、痛みが消えることはなかったという。

 それでもこの夏、彼女は戦いを求めていた。公傷による長期欠場選手の救済処置「プロテクトランキング」を用い、全米オープン予選に照準を合わせていたのだ。その準備として、カリフォルニアやカナダで開催される前哨戦にも出場を予定していた。宿泊先を確保し、現地にいる関係者たちに連絡を入れ、最後の瞬間まで彼女は戦地に立つことを渇望し続けた。

 8月28日――。全米オープン開幕日に発表された引退の報は、ニューヨークにも当然のように、小さくない衝撃を伴い伝わる。

 今年4月、公式戦復帰に先駆けて行なわれたエキシビションマッチの相手を務めた日比野菜緒は、「一番に感じたのは、寂しいなという思い」だと言った。昨年はグランドスラムで勝てず、悩んでいたときに伊達からもらった助言が一条の光になったと、かつて日比野は言っていた。

「あれだけの情熱を持ってテニスに取り組んでいる方は、身近では伊達さんしか思いつかない。一番尊敬していて、目指す人だった」。もちろん引退されてからも、引き続き目標です――そう加えて、日々野は小さな笑みを浮かべた。

「もう1回、遠征をまわり、一緒にご飯などに行けるかなと思っていたので、残念です」

 そう感傷を声に乗せる奈良くるみは、復帰後の伊達との関わりがもっとも深い選手のひとりである。9年前に伊達が最初の復帰を果たしたとき、ダブルスパートナーとして白羽の矢が立ったのが、当時16歳の奈良だった。

「特に私と(土居)美咲は、復帰初戦からダブルスを組んでもらったり、一緒に練習したり、すごくお世話になってきた。伊達さんから学ぶことは本当に多かったし、あそこまでプロフェッショナルな方もいない」

 伊達さんの練習は本当に激しくて、一緒にやったら過呼吸になっちゃったんですよ――奈良もそんなエピソードを、懐かしそうに振り返った。
 
 引退を表明した伊達公子だが、まだ最後の戦いは終わっていない。9月11日から東京で開催される「ジャパンウィメンズオープン」が幕引きの舞台に用意されている。

 そこで彼女が見せるのは、どのようなプレーだろうか? メスを入れたひざは……最後まで彼女を悩まし続けた古傷の肩は、果たしてどこまで持つのだろうか?

「どんなプレーがどこまでできるか未知数」だと、伊達本人も告白する。それでもひとつ、きっと確かなことがある。

 メルボルンで涙を流し、確実に近づいていると覚悟した「その日」から、彼女は約2年半、顔を上げて歩みを進めてきた。限界をささやく周囲の声にも惑わされず、自分だけを信じ続けた。

 だから最後に有明のコートに立つ彼女に、苦しい涙は、ないはずだ。