連載第13回 サッカー観戦7000試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」なんと現場観戦7000試合を超えるサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。今回は9月5日から始まるW杯ア…

連載第13回 
サッカー観戦7000試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」

なんと現場観戦7000試合を超えるサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。今回は9月5日から始まるW杯アジア最終予選、その初戦の相手・中国のサッカーについて。両国の対戦は長い歴史がある。


1987年のソウル五輪予選で日本は中国に敗れてオリンピック出場ならず。中国サッカーは長く日本を上回っていた

 photo by AFLO

【万全な状態で日本に乗り込んでくる中国】

 間もなくW杯アジア最終予選が開幕する。

 カタールW杯を戦った経験豊富な選手に加えて、新戦力も順調に成長した日本代表の実力はアジアでは抜きん出ている。グループ2位以内=本大会進出はほぼ間違いない。

 もっとも、それは一つひとつの試合が楽なものになるという意味ではない。

 よく引き合いに出されるのが、当時FIFAランキング24位だった日本が79位のオマーンに敗れたカタールW杯最終予選の初戦だ。2021年9月2日のことである。

 9月は欧州各国リーグが開幕したばかりで、選手のコンディションが上がりきっていない。そんな時期に、日本の選手たちは欧州各国からの長距離移動で疲労を抱えたままピッチに立ったのだ。

 そもそも、各シリーズの1戦目となる木曜日の試合は、週末のリーグ戦を終えてから帰国するため、選手全員が集合するのは試合前々日の火曜日となる。本格的な戦術練習などできないまま試合に臨まざるを得ないのだ。

 一方、あの時のオマーンは欧州合宿で日本対策を整え、試合の1週間以上前から日本に入って調整していた。

 今回の9月5日の中国戦も状況は同じだ。中国代表は8月下旬から中国東北部の遼寧省大連で合宿を行なって、万全の状態で日本に乗り込んでくる。大連から日本までの移動距離は短い。

 ただし、日本代表は3年前より間違いなく強くなっている。ビッグクラブでプレーする選手が増えたし、3年前と違ってチーム内での地位を確立している選手が多いので、代表の活動に集中できるはずだ。

【中国サッカーの苦しい現状】

 現地からの報道を見ると、中国は日本戦より9月10日のサウジアラビア戦を重視しているようだ。「日本相手にアウェーで勝つのは難しい。それなら、ホームのサウジアラビア戦に全力を」というのだ。

 サウジアラビア戦の試合会場は大連だ。中国は大連で合宿をしたあと、いったん日本に遠征してすぐ大連に戻ってサウジアラビアを迎え撃つ。一方、サウジアラビアは9月5日にホーム(ジッダ)でインドネシアと戦ってから、大連まで長距離移動を強いられる。たしかに、中国有利なのは間違いないだろう。

 日本やオーストラリア、サウジアラビアに伍して2位以内に入るのは難しい。だから、確実に4位以内に入って4次予選(プレーオフ)経由で出場権獲得を目指すというのが中国の戦略らしい。

 たしかに、ここ数年、中国サッカーの劣化は激しい。

 2010年代に、サッカー好きで有名な習近平国家主席の肝煎りで、中国はサッカー強化計画を立てた(目標はW杯開催とW杯優勝だった)。

 すると、独裁的権力を確立した最高指導者の意向を忖度して、地方政府や大企業はサッカーに巨額の資金を投じた。欧州や南米の有名選手多数と契約し、トップクラスの監督を引き抜き、巨大なスタジアムや練習場を建設した。何人かの外国人選手は中国国籍を取得して代表にも入った。

 しかし、思惑ははずれた。

 優れた若手はなかなか育たず、この数年の不動産バブルの崩壊によって親会社が経営危機に陥ったためクラブ経営は悪化。ACLで何度も日本のクラブの前に立ちはだかった強豪、広州恒大(広州FC)はバックにあった不動産大手「恒大集団」の破綻によって2部に陥落。各クラブで給料未払いが発生し、コロナ禍での極度な行動制限に嫌気が刺した外国人選手の多くは中国を離れていった。

 そして、いきなり巨額の資金が流入すれば、どんな組織でも必ず腐敗する。その結果、中国サッカー協会幹部や代表監督が汚職の疑いで拘束されるに至った。そして、代表チームも弱体化し、タイやベトナムにも苦戦するようになった......。

【中国は日本サッカーの目標のような存在だった】

 僕が日本代表と中国代表の試合を初めて見たのは1980年12月のこと。香港で行なわれたスペインW杯アジア・オセアニア1次予選だった。

 大幅に若返った日本代表は風間八宏、金田喜稔、木村和司、戸塚哲也、都並敏史といった豪華メンバー。いずれもまだ20歳前後の若者だった。彼らのテクニックによって日本はボール支配率では中国を大きく上回った。

 木村のFKも大きな武器で、中国を応援しているはずの香港の観衆も、木村がFKのボールをセットすると「オーッ」と歓声をあげた。

 だが、日本は決定力不足。開始早々に中国のベテラン、容志行にミドルシュートを決められた失点を返すことができず、そのまま0対1で敗れたのだ。日本はこのあと、北朝鮮にも延長戦の末に敗れて、1次予選敗退となった。

 容志行は当時32歳。20世紀のアジアを代表するFWのひとりだったはずだが、全盛期には中国がまだ国際舞台に復帰していなかったので、国外ではあまり知られていない。

 もうひとつ、1980年代の日中戦で忘れてはならないのが1988年ソウル五輪の最終予選だ。

 韓国は開催国なので予選には出場しない。日本にとっては20年ぶりの五輪出場のチャンスのはずだった。中国・広州でのアウェー戦では、西ドイツから帰って代表に復帰した奥寺康彦が左サイドバック(SB)として中国の攻撃の起点となる右SB朱波を封じ込め、原博実のヘディングシュートで日本が先勝。

 ところが、東京・国立競技場での雨中の最終戦で、日本は0対2で敗れて五輪出場権を失った。当時の日本代表は守備を強化してきたはずなのに、引き分けでもよい試合で2失点してしまった。

 もともと、中国は日本サッカー界にとっては目標のような存在だった。

 日本が初めて中国と対戦したのは1917年に東京で行なわれた極東選手権大会。日本と中国、フィリピンが参加した総合競技大会のサッカー競技だった。日本からは当時日本最強だった東京高等師範学校(筑波大学の前身)が代表として出場したのだが、中国には0対5、フィリピンには2対15と大敗を喫してしまった。

 中国を代表して出場したのが香港の南華体育会(サウスチャイナ)。香港は英国植民地だったので、英国人チームと競い合っており、当時の香港はアジア最強だった。

 その後、極東選手権で中国を倒すことが日本サッカー最大の目標となったが、1930年東京大会で引き分けたものの、第2次世界大戦前にはとうとう一度も中国に勝つことはできなかった。

 戦後は、台湾(中華民国)が加盟していたため中国がFIFAを脱退してしまったので、中国との対戦はほとんどなくなった。そして1970年代に中国がまずAFC、その後FIFAに復帰してようやく交流できるようになったのだが、前述のように日本は中国相手に苦戦を強いられ続けた。

 ようやく、日中韓の力関係が逆転したのは、1990年代になってJリーグが発足してからのことだった。

【中国サッカーの復活はあるか】

 将来、「眠れる龍」と言われる中国が目を覚まして、再び日本の前に立ちはだかる日が来るのかもしれない。だが、それは遠い先の話だろう。

 権威主義体制の中国では重要なことはすべて中国共産党が決定する。そして、権威主義体制とサッカーは相性が悪い。現在の中国と同じように、1980年代までのソ連や東ドイツは五輪で金メダルを大量に獲得するスポーツ強国だった。だが、彼らはサッカー強化には失敗した。

 プレーが途切れないサッカーというスポーツでは、選手は監督の指示を待っている時間はない。パスをすべきか、シュートを狙うべきか、ドリブルを仕掛けるのか、すべてボールを持っている選手が自ら判断するしかないのだ。

 だが、権威主義体制の下では個人が自分の頭で物事を考えて判断する習慣を身につけるのは難しいはずだ。中国の現状を見る限り、中国サッカーの復活にはまだまだ時間がかかると思われる。

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